近頃最終回を迎えた『マクロスΔ』を見ながらマクロス・シリーズとは、なかなかにユニークな存在であると改めて思った。
何をもってして「シリーズ」と呼びうるのかというのは大きな問題だ。まずそこをガンダム・シリーズを例に考えてみよう。

ガンダム・シリーズは、そもそも「宇宙世紀」という世界観をベースにした年代記(戦記)という形で継続していた。その根底には宇宙移民と地球連邦の相克のドラマがある。そうした大状況に、作品ごとの新主人公が投じられ、新たなドラマが紡がれる。
同一世界観という枠組みの中で、各作品ごとに新主人公を投入して、ドラマを仕切り直していくというのは、実に正しい方法だ。主人公という存在は、本人の中にあるドラマを使い尽くしたら(基本的には)主人公たり得ないのである。

『ガンダム』に先行する『宇宙戦艦ヤマト』が、シリーズが続くにつれて、ドラマの構築に苦労するようになったのは、主人公が古代進であるという枠組みをはずせなかったことも大きい理由のはずだ。ガンダム・シリーズはその陥穽に陥らなかったからこそ継続できたといえる。
ところがガンダム・シリーズは長く続いていく過程の中で、シリーズの枠組みだった「宇宙世紀」という世界観すらもはずしてしまう。
TVアニメにとって「面白そうに見える/新鮮に見える」世界観は大きな強みである。シリーズ開始10余年を迎えたガンダム・シリーズは、シリーズとしての一貫性より、番組として新鮮さ、面白さを増やす方向へと舵をきったのだ。そしてご存知の通り『機動武闘伝Gガンダム』以降は、シリーズごとに世界観が立ち上げられ、作られることになった。こうしてガンダム・シリーズである条件は、ガンダムというモビルスーツ(18mサイズの人形兵器)が登場すること、というミニマムな点にまで絞り込まれた。

これは『仮面ライダー』も似たようなもので、仮面ライダー・シリーズはもはや「仮面」に意味もなく、「ライダー」も第一条件ではない。玩具のプレイバリューと結びついた「変身ベルト」による「変身」というギミックこそが、シリーズの根拠になっている。

ではマクロス・シリーズはどうなのか。
マクロス・シリーズは、最初の『超時空要塞マクロス』終了後、人類が銀河系内に植民に進出したという設定になっている。この設定があることでシリーズごとに銀河のさまざまな場所を舞台に選ぶことができる状態だし、主人公が新しくなっても不自然ではない。年代記的側面はあるけれど、各シリーズが直線的に結び付けられているというより、時系列的に先行する事件の影響をゆるやかに受けている、という程度だ。
しかもマクロス・シリーズは「各作品は未来の各時代に作られたフィクションである」というメタな設定も存在している。こちらはTV版と劇場版のストーリの相違や、各シリーズ間の矛盾の調整をせずにすむエクスキューズとして機能している。
要はマクロス・シリーズは、シリーズとしての一貫性は保ちつつも、世界観をわざわざ一新せずともかなり自由に物語づくりの前提が設定できるという“いいとこどり”で出来上がっているのだ。だからマクロス・シリーズの“胃袋”は強靭で、たいがいのものは取り込むことができる。

ではマクロス・シリーズの一貫性は何で担保されているのか。もちろん世界観も一貫はしているのだが、それ以上に「可変戦闘機バルキリー」「三角関係」「アイドル(歌)」というアイコンの配置でマクロス・シリーズであることを主張しているのである。しかもこの3つは均等に力を入れられるわけではなく、作品ごとに強調されるポイントは異なる。このあたりの縛りとゆるさの関係も絶妙だ。
最新作『マクロスΔ』はこうしたマクロス・シリーズの持つ自由度が存分に生かされた作品だったと思う。

物語の背景となるのは、銀河辺境にあるウィンダミア王国と新統合政府の対立。ウィンダミア人は、人類同様、50万年前に銀河を支配したプロトカルチャーから生み出された人形種族。独特の文化を持ち、自らをプロトカルチャーの正統な後継者と任じている。
7年前のウィンダミア第一次独立戦争では、使用が禁じられている次元兵器が使用され、多数の新統合軍兵士や数百万人のウィンダミア人が巻き込まれた。その後、休戦状態が続く中、ヴァールシンドロームという一般人が突如凶暴化する奇病が猛威をふるいはじめ、これが実はウィンダミア側が仕掛けたテロであることが明らかになる。そしてウィンダミアの攻勢の中、主人公ハヤテたちは拠点である惑星ラグナから住民とともに脱出せざるを得なくなる。
少数勢力との対立、テロの恐怖、難民化する主人公たち。『マクロスΔ』で描かれる要素は現在の世界でも問題になっていることばかりだ。ただこれは現実の政治状況をなぞっているわけではない。あくまでもマクロス・シリーズなりに消化した形で提示されているのだ。しかもそんな大問題を取り入れつつも、決して無理やり設定に取り込んでいる感じがしない。『マクロスΔ』のかなりアクチュアルな設定は、このシリーズ特有の“胃袋”の強さだからこそ可能になったのだ。

もちろん『マクロスΔ』がその中で、作中に取り込んだ現実の諸問題の答を出せるわけではない。そこで描かれるのは、幾分理想化された、物語の中での決着にすぎない。でも、それはそれでいいのだ。

現実の問題は現実でしか解決できない。
フィクションは直接的に現実の影響下にあるが、フィクションが現実に影響を与えるには、非常に複雑なプロセスが必要だ。そのプロセスをショートカットしようとすると、それはプロパガンダとか洗脳といったものに限りなく近づいてしまう。
フィクションは、フィクション故の無力さとともに現実を映し出す。そこでバトンはフィクションから読者・視聴者に手渡される。このバトンを意識するかどうかで、「作品を見る」という体験の重さもまた変わってくるのだ。『マクロスΔ』はシリーズの特徴を上手く活かして、そんな作品に仕上がっていた。

[藤津 亮太(ふじつ・りょうた)]
1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ
ゼロ年代アニメ時評』がある。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」(http://ch.nicovideo.jp/animenomon)で生配信を行っている。