窓が13 「きれいさび」表現
 加賀百万石の文化の礎を築いた三代藩主前田利常のために江戸時代前期に建てられた茶室「擁翠(ようすい)亭」が、当時の部材を使って京都市内で復元され、静かな人気を集めている。にじり口を含めて窓が十三あり、その数は日本一。利常と親しかった茶人大名小堀遠州による独創性あふれる設計で、京で花開いた「寛永文化」にもつながりが深かった利常の文化振興を考える上でも注目されそう。
 復元された茶室はこけらぶきの入り母屋造りで、客間は三畳。にじり口と手前座が向かい合っている。
 窓は低い位置にも多くあり、元々は池畔に建てられていたため、風通しの効果はもちろん水面の光を取り込めるように配慮。「わびさび」に、明るさや美しさを加えた遠州の「きれいさび」を端的に表現している。本来は、茶室に用いない金工の装飾がある襖引手(ふすまひきど)も使われ、利常を喜ばせるためと考えられている。
 寛永・正保年間(一六二四〜四八年)に建てたのは、装剣金工師で前田家に仕えた後藤覚乗(かくじょう)。現在の京都市上京区岩栖院町にあった自邸に書院とともに、遠州に設計を依頼して造られた。
 茶室は明治期に解体され、数寄屋大工の家で保存されていた。数寄屋建築の第一人者中村昌生・京都工芸繊維大名誉教授が調べたところ、解体材は後藤家の茶室に使われていたことが分かった。
 利常は、覚乗に上方の情報収集、財政面の御用達という役目も担わせていた。京都の庭園を紹介する一九〇九年の「京華林泉帖」(京都府庁発行)には、擁翠亭が「加賀侯前田利光(利常)の為に館舎を築き小堀遠州をして之を経営せしめ」と書かれてある。
 古田織部美術館を運営する上京区の出版社が古材と図面を購入し、北区大宮釈迦谷の太閤山荘に昨年六月に図面に基づき復元した。美術館長の宮下玄覇(はるまさ)さん(42)は「茶室の復元は、遠州に茶の湯を手ほどきした古田織部を崇敬する私には運命にも思える。織部の息子、古田左内重尚が利常公に仕えていたとの記録も見つけた。縁を感じる」と話している。
 擁翠亭の名は、松の巨木があったことに由来。江戸中期に洛西の寺院に移され、明治初期に寺の廃止に伴い解体されていた。見学には申し込みが必要。問い合わせは太閤山荘=電075(491)0666=へ。 (沢井秀和)
 前田利常(1594〜1658年) 裏千家の祖、千仙叟(せんそう)宗室(そうしつ)のほか、蒔絵(まきえ)師の五十嵐道甫らを招いた。「寛永文化」の中心だった後水尾天皇・上皇と親しく、天神画像や書を贈られている。利常の正室、珠姫と後水尾天皇・上皇の中宮は姉妹。
 小堀遠州(1579〜1647年) 近江小室藩主。幕府作事奉行として建築、造園を指導した。利常が集めた茶道具に箱書きなどもしており、前田家の文化顧問としての役割も果たしていた。