音楽評論家の湯川れい子が今年1月に生誕80年を迎え、その軌跡をたどる関連本やアルバムをリリースしている。戦前から戦後の日本、そして世界を舞台に生きた波乱万丈の人生。その折々で影響を受けた音楽、映画、大物海外アーティストたちとの出会いについてインタビューで語った。

 「小さい頃から好奇心の塊で、女優、作家、詩人、絵描き、お医者さんになりたい! って思っていました」と述懐する湯川。24歳で音楽評論家になるまでの間、年齢を偽っては映画のキャンペーンガール、キャバレーでダンスの相手をするアルバイト、女優、進駐軍回りの歌手、英語漫談コンビ、貿易会社の社長秘書……とさまざまな仕事を経験した。「新聞で募集していて『あっ! これやってみたい』と思えば応募する。昔の水洗トイレで、引くとタンクの水が流れる紐があったけど、やりたいことにトライするのは目に見えない紐を引っ張るような『これはいい』『これは違う』って試しているみたいな感じだった」と振り返る。

 そんな湯川は「お試し感覚」で参加した映画『ホフマン物語』(1951)のキャンペーンガールの仕事をきっかけに、映画に夢中に。「お弁当を持って映画館に行き、1日4回同じ映画を観る。3回目を観るときはほとんど字幕を見ないようにして、4回目でどうしてもわからないところだけ見て、それで映画1本の英語をまるまる覚えた」と明かす。『赤い靴』(1948)『踊る大紐育』(1949)『バンドワゴン』(1953)……。英語力を身につけるとともに、映画を通じて人間の真理や愛についても学んだという。
 
 さまざまな経験のなかで大きな手応えを感じて、湯川の転機となったのがモダンジャズをきっかけとした音楽評論の仕事。1954年頃からジャズにはまり、56年にはエルヴィス・プレスリーの楽曲との出会いも。「ラジオのFEN(米軍の極東向け放送)で、『ハートブレイク・ホテル』を聴いて、何これ? って。ものすごくスリリングで、今の表現で言えばセクシーで、『ゾクゾクするような音楽』」だったそうだ。

 プレスリーの音楽は若者を不良にすると起こった米国での排斥運動に「ジャズを聴いていて感じた、人種差別や格差などに通じる、1枚のレコードの背景にある社会に興味を持つようになった」という湯川は、ジャズをはじめ音楽の基本から最新の理論も学び、「スイングジャーナル」「ミュージック・ライフ」などの音楽誌で評論家として健筆をふるうようになった。

 64年にはビートルズの「抱きしめたい」にプレスリーと同じ感動を受け、66年の来日公演で同バンドと対面を果たす。メンバーや、熱狂する日本のファンの姿を通して、「言葉や肌の色は違っても、一緒にハッピーに生きていこうというエネルギーが音楽にはあると強烈に思った」という湯川はその後、カーペンターズ、マイケル・ジャクソン、レッド・ツェッペリン、エルトン・ジョンといった数々の大物たちとの出会いを重ねた。

 今年6月に発売したアルバム「音楽を愛して、音楽に愛されて」を、湯川は「私の人生そのものですね」と評す。「ランナウェイ」「六本木心中」「恋におちて」など、自ら作詞した約500曲の中から選りすぐりの名曲を集めた「作詞コレクション」、人生を彩った楽曲「洋楽セレクション」からなる力作だ。洋楽の方に選んだ曲については「戦後の音楽の歴史そのものであると同時に、私たち地球市民の歴史で語るべき意義がある楽曲です」と思い入れもたっぷり。アルバムと同タイトルのムック本(ぴあ刊)では、自身の80年の歴史と「音楽評論家・湯川」の代名詞ともいえる数々のビッグアーティストたちとのエピソードを紹介している。

 「私はどちらかというと“ミーハー・マーケット”にいる人って思われてきたけど、自分がいいと思うから書ける。とにかく聴いて、わかってほしい」と話す湯川。数々の出会いについて、「自分がコマのようにエネルギーを集中して高速回転していると、次々と人や物を引き寄せ、振幅して、増殖して、伝達するみたいなことがあるのかも」と振り返り、「求めよ、さらば与えられん!」と若い世代にメッセージを送る。

 そんな湯川は、「北朝鮮やイスラム国もそうだけど、人間は不安が強くなるほど敵や攻撃対象をつくろうとする。でも人間が目指さなければいけないのは、この小さな地球という星を共に守って生きていくということ。そのことを認識してもらうためにも、映画や音楽を観たり、聴いたりしてほしい」という言葉でインタビューを締めくくった。(取材・文:岩崎郁子)