「生命(いのち)の画家」として

中川一政の作品と対峙してみる。その大きくて迫力ある画面に目をこらしてみると、キャンバスに叩きつけたかのような筆跡のひとつひとつに、彼自身の魂が込められていることに気づく。それは己の心の中に湧き上がる感動に突き動かされ、自然と筆が動いた結果なのだ。彼の作品は、芸術とは、画家自身の生き様そのものを全体重をかけてつくりあげるものだということを物語っている。こんな画家はほかに例を見ない。

真鶴半島自然公園に隣接する緑豊かな場所にある〈真鶴町立中川一政美術館〉。日本を代表する洋画家である中川一政の作品を常設展示する美術館だ。

1893年(明治26年)に東京で生まれた一政は、その後1949年に真鶴にアトリエを構え、1991年に97歳11か月で亡くなるまで真鶴で絵を描き続けた。その作品は油絵のみならず、日本画、書、陶芸など多岐にわたり、美術館ではそれら650点余りを所蔵している。

一政は岸田劉生(1891〜1929年)とほぼ同世代。21歳のときに岸田に認められて本格的に画家を志し、岸田や数人の仲間たちと〈草土社〉を結成して美術展を行うなど、日本の洋画壇を牽引してきた存在だ。随筆も多く執筆するほか歌も詠み、1961年には歌会始の召人に選出されて歌を詠進。1975年には文化勲章も受章している。

と、そんな略歴を見ると、はるか雲の上の人のように思えるが、一政と晩年の21年間をともに過ごし、現在は美術館の指導員を務める佐々木正俊さんの話からは、すばらしい芸術家である一政が、人としてもあたたかく魅力的な人だったことがうかがえる。

『福浦』1961年(写真提供:中川一政美術館)

修善寺に向かう途中に真鶴の風景に出会い、この地を気に入った一政は、1949年に真鶴に家を買い、それからは真鶴半島の付け根にある福浦の港を好んで描き続けた。その頃はまだ東京の自宅兼アトリエと真鶴を往復する日々だったようだが、1970年からは真鶴に住みながら箱根の風景を描き始める。そのときに東京から呼び寄せられたのが佐々木さん。以来、箱根への車の運転からキャンバス張り、一政が好んで描いたひまわりの栽培など、日々の創作に関わることから雑用まで、あらゆることを佐々木さんがこなしたそう。

「箱根まで車で40分くらいの道を私が運転しました。最初は箱根のどこを描こうかと景色を探して走り回っていて、やがて駒ヶ岳を見つけて、ここがいいと。それから通い始めて15〜16年描き続けました。天気がよければいつも、朝ごはんを食べたら、よし行こうと。有料道路の料金所の人にお菓子を持って行ったり、お正月には一升瓶を持って行ったりしてね。3年くらいしたら、料金所の人がもうお金はいいから、と顔パスになりましたよ(笑)」

一政の身の回りの世話をしていたという佐々木正俊さん。現在は美術館の指導員を務める。

真鶴と箱根では天気も微妙に異なるため、佐々木さんが料金所に電話をして、駒ヶ岳が見えるかどうか聞いたこともあったという。天気が悪くても、気分が乗っているときは出かけたそうだ。

「天気が悪い日に、近くまで行って車の中で雲が切れるのを待っていたら、窓を開けろと言う。開けたら、駒ヶ岳に向かってふーっ、ふーっと息を吹きかけているんです。何をしているんですかと聞いたら、雲が動きやしないかと思って、と言うんですよ(笑)。ふざけているのかと思ったら、本気なんです。悔しくてしょうがなかったんでしょうね」と佐々木さん。

チャーミングな人柄が感じられる逸話だが、創作に対してはいつも真剣だったという。「本当に絵のことばかり考えている人でした。そんな人はなかなかいませんよね。特に風景を描きたかったんだと思います。いつも自然と対峙して描いていた。大きいキャンバスで屋外で描くのは気持ちよかったのだろうと思います」

『駒ヶ岳』1980年(写真提供:中川一政美術館)

『薔薇』1983年(写真提供:中川一政美術館)

駒ヶ岳を15年にもわたり描いているが、薔薇も描き続けた題材のひとつ。そのように同じ題材を何枚も何枚も描くのが、一政の特徴でもある。「あるとき先生に、なぜ同じ場所で同じ景色を描くんですかと聞いたことがあるんです。そうしたら、同じじゃない、と怒られました。毎日違うんだと。先生から見ると、同じではないんですね。満足するまで描き続けるのだと思います」

やがて一政が作品を真鶴町に寄贈するかたちで、1989年に真鶴町立中川一政美術館が開館。いくつかあった候補地から現在の場所に決定したのは、「お林」と呼ばれる豊かな森に隣接する環境もあるだろう。建築設計はコンペで選定が行われ、一政本人が選んだ。

一政が特に希望したのが茶室をつくるということ。わざわざ京都から数寄屋造りの大工を呼んで、京都風につくらせたという。器も自分でつくる一政は、自作の茶碗を用いてお茶会をするのを楽しみにしていたのだそう。「完成したときは目利きの文化人たちを招いて茶室開きをしてね、とてもうれしそうでしたよ」と佐々木さん。

常に絵のことが念頭にあり日々創作に励んだ一政は、人づきあいはあまりなかったようだが、それでも来客があると、真鶴でとれた魚のお刺身で客をもてなしたのだそうだ。

真鶴に長く暮らしていた一政だが、意外にも真鶴の風景を描いた絵は少ない。自然と対峙し、魂を込めて描き続けた一政にとって、真鶴の風景は創作の地というよりも安住の地と映っていたのかもしれない。

堅苦しく考えず、見たままに感じる

そんな中川一政美術館には、観光客や遠方からも一政のファンが多く訪れる。尾崎士郎の新聞連載小説『人生劇場』の挿画や、向田邦子の『あ・うん』の挿画も一政が手がけていることもあり、文学ファンや、書を見たいとやって来る人、またリピーターも多いという。

その一方で、地元真鶴の人たちにももっと一政を知ってもらいたいと、美術館では毎月第2、第4土曜日は真鶴町民は入館料が無料に、さらに第3日曜日は真鶴町民が家族で来館すると無料になるという日を設けている。また、地元のまなづる小学校からは、毎年図工の鑑賞授業として小学生を受け入れ、本物の芸術に触れる機会をつくるなど、地域での取り組みも行っている。

そして現在、美術館と鑑賞者をつなぐような存在として「中川一政美術館サポーターズ」を準備中だ。その中心メンバーのひとりが、美術館に受付として勤務する佐々木美穂さん。結婚して真鶴にやって来た佐々木さんは、それまで知らなかった一政に、いまではすっかり魅せられてしまったそう。

「先生の言葉で『われはでくなり つかはれて踊るなり』という言葉があるんですが、私もここで働いていると、この美術館のために何かしなくちゃという気持ちが強くなってきました。理屈ではなく、何かの力に動かされているような気がするんです」

受付にいると、お客さんに声をかけられることがよくあるのだそう。そんな経験から、お客さんと美術館の架け橋になるような活動ができたらと考えたのだという。「美術館って美術を好きな人以外には、少し敷居が高いのかなと思うんです。その敷居をちょっとでも下げられたら」

これまでも真鶴では〈まちなーれ〉というアートイベントが開催されてきたが、今後展開していく〈真鶴半島イトナミ美術館〉など、外部の動きとも連携して、イベントなどができたらと考えているようだ。

芸術は堅苦しくないもの、まずは触れてほしいと佐々木さんは話す。「芸術作品には歴史的な背景やいろいろな解釈もありますけど、先生はそうではない見方もあると考えていたと思うんです。お客さんに、これはどういう意図で描かれたのですか? と聞かれることもありますが、先生は感じたままでいいとおっしゃっているんですよ、とお伝えしています。ここにいると楽しいですよ。これだけ多くの人に愛されている先生なんだと思うと、ここのためにがんばらなくちゃ、と思うんです」

一政の「美術の眺め」という文章にこんな一節がある。

画の見方と云えば画をきゅうくつに考えないで見る事です。(中略)自分のわかる程度で素直に見てゆく事です。理屈ぜめにして見てゆかぬ事です。自分が成長すればわかるだろうと思う事です。そして成長する事を考えた方が近道なのです。こういう風にすれば観賞の内容が深くなって行きます。

難しく考えずに、まず美に触れて感じること。そんな一政の思いと、パワフルで生命感あふれる、見ているだけで人々に勇気と元気を与えてくれる中川芸術のすばらしさを、真鶴の人たちが受け継ぎ、これからも発信していってくれるだろう。

現在美術館では、「生命(いのち)の画家」中川一政の没後25周年展『中川一政とそのコレクション』を11月29日まで開催中。12月からは一政が手がけた本の装丁に着目した展覧会が開かれる。どちらも見逃せない。

information

真鶴町立中川一政美術館

住所:神奈川県足柄下郡真鶴町真鶴1178-1

TEL:0465-68-1128

開館時間:9:30〜16:30(入館は16時まで)

休館日:水曜日(祝日の場合は開館)、12月28日〜1月3日

http://www.nakagawamuseum.jp/

editor profile

Ichico Enomoto

榎本市子

えのもと・いちこ●エディター/ライター。コロカル編集部員。東京都国分寺市出身。テレビ誌編集を経て、映画、美術、カルチャーを中心に編集・執筆。出張や旅行ではその土地のおいしいものを食べるのが何よりも楽しみ。

photographer profile

MOTOKO

「地域と写真」をテーマに、滋賀県、長崎県、香川県小豆島町など、日本各地での写真におけるまちづくりの活動を行う。フォトグラファーという職業を超え、真鶴半島イトナミ美術館のキュレーターとして町の魅力を発掘していく役割も担う。

credit

Supported by 真鶴町