【辰吉三代物語1】

 ボクシングの元WBC世界バンタム級王者、辰吉丈一郎(45)が試合から離れて約7年。網膜剥離からの復帰、3度の載冠。記録より記憶に残るボクサーとしてカリスマ的な人気を誇った男は、次男寿以輝(19)がプロデビューしてなお現役を名乗っている。今回の「人間再発掘シリーズ」では、反骨のボクサーを男手ひとつで育てた粂二(くめじ)さんと父子2人、濃密な親子関係をひもとく。また、息子たちへと受け継がれていくものとは−。

  ◇  ◇

 口の中に残ったのは、ジャリッと砂のような味だった。火葬場で、まだ温かい、父の左こぶしの骨を迷わず食べた。飲み込んだ骨は、かすかな違和感とともに自分の中に入っていった。そうでもしなければ、立ってはいられなかっただろう。父と同化する感覚を丈一郎はかみしめた。

 最愛の父の死に目に立ち会うことはできなかった。1999年1月31日、午後0時43分。父粂二は人生の幕を閉じた。52歳だった。出血性胃潰瘍(かいよう)。岡山・児島の自宅で血を吐いて倒れ、病院へ運ばれた。丈一郎は、既往症のある網膜剥離の補強手術で入院中だった。病院にかけつけた時にはもう遅かった。その体にすがりつくしかなかった。

 ずっと、2人だった。1歳になるかならないかの頃に、母は家を出て行った。顔も名前も知らない。離婚の理由を粂二は「オレが悪かったんじゃ」としか言わなかった。

 とにかく貧しかった。テレビも電話もない暮らし。アイロンかけの職人だった父は、子育てのために賃金の安いパート勤務を選び、工場で働いていた。ズボン1本が5円か10円。5時までに仕事を終え、保育園の丈一郎を迎えに行く。買い物をして食事をつくり、風呂を沸かす。洗濯は、おしめの頃からたらいで手洗いしていた。一日のすべての時間を息子のために使った。

 そして、ボクシンググローブを与えた。県営住宅の中庭にサンドバッグをつるし、どこかでもらってきたバーベルを置いた。そこが親子のジムだった。夜9時から約1時間。5歳から中学を卒業して大阪に行くまでの11年間、365日その暮らしは続いた。

 遊びたい盛りも同じだ。仲間とバイクを乗り回していても、丈一郎は9時になると「ごめん、わし練習があるけん、帰る」ときびすを返す。スパーリングも本格的だった。街灯の下で毎夜こぶしを交える親子の姿は、近所でも異質だった。

 漫画「あしたのジョー」にちなんだ「丈一郎」という名前からもわかるように、粂二はボクシング好きであった。しかし、最初からボクサーにするために手ほどきしたわけではない。身を守る術(すべ)を教えたかったのだ。

 無口な父との2人暮らしのせいか、丈一郎は言葉が遅かった。保育園ではいじめられ、泣いて帰ることもしばしばだった。人の顔色をうかがうような幼児期。運動会で1着になれるのにわざと負けて、しかもそれを悟られまいと悔しがって見せたりする子供だった。

 ボクサー辰吉の大きな特徴、だらりと下げた左ガードは素早く攻撃に移るため、リスク承知の技だと言われてきた。しかし、実は違う。「オーソドックス(右構え)なら、まず相手は(右足で)蹴る。左手を下げていれば、相手の足を取れるやろ」。父が教えたノーガードの真意。それは、いじめられっ子が相手に立ち向かう、ケンカの極意だった。

 親子の最後の会話は、死の2日前。電話で左目の経過が順調であることを報告した。家にこもりがちな父に「父ちゃんも散歩したりして体に気をつけろよ」と言うと「お前は自分のことを心配しろ」とガチャッと電話を切られた。

 父が倒れたと聞き、病院に到着した丈一郎は、不思議な体験をした。車を降りて玄関を入る時に、声が聞こえたのだという。「ジョー、すまん」。確かに父の声だった。

 「どういう意味やったのか。わざわざ帰って来たのに間に合わなくて『すまん』なのか。お前、これから生きていけるか、なのか。先にあっちへ行っとくわ、というのか。悲しい思いをさせて『すまん』かも。いろんな意味を考えた」。答えは今もわからない。

 通夜の前、丈一郎はカミソリを手に取り、粂二のひげをそった。告別式での喪主あいさつ。用意していた型どおりの文章を読みかけたが、途中でふとわれに返ったように顔を上げた。そして、大勢の参列者を前にこう言った。「おやじも『ざまあみろ』と思っているでしょう」。その後は言葉が続かなかった。

 ずっと、2人だった。父がいる四畳半と六畳二間の家が自分の天国だった。貧乏でひとり親でいじめられっ子。それでも卑屈にならず、こびず、日和(ひよ)らず生きることを教えてくれたのは父ちゃんだった。その孤高の人生を「ざまあみろ」という言葉で表した。=敬称略=

【連載にあたって】

 浪速のジョーは、本気でリング復帰を目指している。モチベーションは1つ。「ベルトを持って父ちゃんと一緒に岡山に帰る」。児島の街が一望できる高台の墓はまだ空っぽ。遺骨は守口市の自宅にある。

 体のためにグローブをつるしてほしいと言う人がいる。晩節を汚してほしくないと言う人もいる。ここでは是非は問わない。ただ、練習を見れば彼が本気だとわかる。週6日、約2時間のジムワークでは、1分のインターバルも休まない。著しい体力の低下は自覚している。だからこそ「いつでも試合ができるようにしとかなあかん」と体を痛めつける。

 粂二さんは生前一度も大阪へ来なかった。「あいつが好きでやっとること。息子が人をたたいてるのを見て何がおもしろい」と生で試合を見ないままだった。息子が巣立った後は「わしはもう生きる屍(しかばね)じゃ」と言い、世捨て人のような晩年を過ごした。

 児島の街で聞いた。「粂二さんは、辰吉丈一郎という人間をつくるためだけに命を授かった人だった」。不器用な生きざまは、親子で重なる。世間の空気を読んで流れに乗ることを毛嫌いし、自らの価値観を全うする。それは、愚かしいことなのか。筆者なりに答えを探したい。

  ◇  ◇

 ▼辰吉丈一郎(たつよし・じょういちろう)1970年5月15日生まれ。岡山・倉敷市出身。中学卒業と同時に大阪帝拳に入門。90年に日本最速タイとなる4戦目で日本王座を獲得。91年に当時国内最速の8戦目でWBC世界バンタム級王座を奪取した。左目網膜剥離による引退危機を乗り越え、2度の王座奪回を果たす。2008年に国内ライセンスの資格を失効したが、現役続行を希望。08、09年にタイで2試合(1勝1敗)を行った。プロ戦績20勝(14KO)7敗1分け。家族は妻・るみさん、長男・寿希也さん、プロボクサーの次男・寿以輝(大阪帝拳)。