映画『怒り』の撮影現場。「もっといい方法があるのではないか?」「これができることのすべてなのか?」。時に態度で、時に相応の言葉にして、李相日監督は俳優やスタッフに問い続けたという。問う一方で監督自身、“腹に落ちる”まで粘り続けた。俳優とスタッフが、その問いと粘りに応えようとすればするほど、撮影現場は過酷になっていったに違いない。「監督のこだわりはモノを作る人間であれば当然の欲求である」と、この映画の音楽を手掛けた坂本龍一はいう。

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残忍な夫婦殺害事件から一年。千葉、東京、沖縄に素性の知れない3人の男が現れ、その地で静かに人間関係を育んでいた。愛する人、信頼する人となった男たちは犯人なのか――? 李相日監督に、こだわり、粘り抜いて映画として成立させたものとは? 監督にとって“演出”とは? など聞いた。

Q 原作者の吉田修一さんですら「映画にしづらい小説」とおっしゃっていますが、なぜ「怒り」を撮ろうと思ったのでしょう?

A のっけから一番言葉にしづらいところを(笑)。うーん。……言葉や映画にするのが難しい、目に見えない問題が、今、いろいろな形で表に出てきていますよね。それらをどこかで映画にしなければと思っていましたが、映画にはできても、エンタメに(昇華)するというところが難しくて止まっていたんです。でも吉田さんの「怒り」は、その壁を見事に超えてきた。これは撮らなければならないだろうと……。

Q 『悪人』(10)は吉田さんとの共同脚本でしたが、本作では単独で脚本を担当された。書くうえで、吉田さんと相談された部分はありますか?

A 原作に書かれていない、犯人の見解というか、動機など、そういった書かなかった部分を周辺でどう肉付けしていったのか、結果的に脚本には落とし込みませんでしたがうかがいました。原作に描かれていなくても、映画では描かないと説得力が生まれない部分もある。犯人は現代が生み出した怪物ではなく、一人の人間。そこにどう説得力を持たせられるか。社会が窮屈になってきたから、という一言で括るのではなく、納得できるあり様を描きたかった。そうしなければ、映画は完結しないと思っていました。

Q おっしゃるとおり、この映画では、そのとき犯人が一番深く思い詰めていた感情の発露として“殺人”を描いており、 “理由”こそ描かれませんが、そこに至る行動にこそ映画のテーマが隠されているように思いました。

A 殺人犯の心根にある怒りとはどういうものなのか? 怒りや憎悪、悪意の塊そのものが膨れあがって、彼を吞み込んでしまうイメージというか。役者とは撮影の段階で人を殺す瞬間の感情までは分からないけど、そこに至るまでの道筋の話はかなりしました。言葉にするとすごく安易な答え方しかできないんですけど、何を望んでいた人なのかを理解しないといけないと思っていた。“彼”の怒りは結果としては、自分に対しての怒りだと思う。彼が人とどうかかわることを望んでいたのか、自分の望み通りにならず、欲しいものを手に入れることができない彼が、本当に手に入れたいと思っていたものは何だろうと考えていくと、この人物のなかでも人を殺した瞬間は空白なんだろうと思いました。ずっと埋まらないというか。もし出会いが犯行前であったなら、殺人は犯さなかったかもしれない。逆に言うと、ずっと空白にしていたことは、出会いによって処置せざるを得なくなってくる。どこまで行ってもやってしまった自分に怒りを持っている。犯した行為への贖罪というより、やってしまったことで自分の人生が壊れたことに怒りを持っているというか。

Q 一言で“怒り”と言っても、それが内に向かう場合と、外に向かう場合では異なります。そういう違いを受け止める俳優も、監督も相当のエネルギーを要したのではないでしょうか。演出ってなんでしょうね?

A 俳優さんにどういえばこういう映画ができるんですかとよく質問されますが、答えられないですよね。決まりきった正解を探しているわけじゃないので。100近くインタビューを受けているんですけど、いまだにその問いに対する答えは見つからないんです。たぶん俳優も僕と同じ、あるいは近しい課題、難しさを抱えているんだと思うんですね。そのことをお互いよくわかっているからこそ、無駄になってしまうのも織り込み済みであらゆることを試し、情報を入れ、トライしてみる。自分の身体で体感してみる。手探りしていく作業が延々と続く。見つけていく作業に、テイク数が多いとか、リハーサルを積み重ねるとか具体はいくつもあるんですけど。たぶんお互い分かり得ないものを手に入れようとする共通認識がないと成り立たないとは思います。

Q 監督のロケーションの選び方にもある演出的意志が感じられます。『怒り』は、千葉、東京、沖縄と3カ所で撮影されていますが、それぞれの土地をどう捉えていましたか?

A 僕の映画は風景カット、エキストラカットがほぼないんですよ。撮影の笠松則通さんが「どうせ撮っても使わないしな」って言うくらい(笑)。そして人々の背景も説明しません。基本映画で過去を説明する必要はなく、大切なのは場所なんだと思うんです。その場所にその人が立って歩くことで、これまでが見えてくる。ロケハンでは、映像的な見栄え以上に、その人のシルエットを探しているという感じ。

もちろん、3カ所の違いもくっきりと出さなきゃいけない。千葉の漁港は、対岸に立って見渡すと伝わってくるちょっと閉鎖的な空気感。道路は通っているのでどこへでも行けるはずですが、漁協中心に狭い家並みがあって、山に囲まれている。陸の孤島に洋平の人生が詰まっている。そこから東京に逃げ出す愛子がいる。家と漁協の距離に二人の人生が凝縮されているというか。

そういう意味では沖縄も同じ。無駄に青い海。そこで育った辰哉がいる。最初はきれいなんだけど、毎日見ているとちょっと怖くなってきたりもする。もしかすると泉はそう思い始めているのかもしれない。

東京というあれだけ人が多い都市の屋上で、派手なゲイパーティが行われ、ひと固まりになっている優馬たちがいる。上から見るとみんな丸見え(笑)。実はあれはあれで隠れているという意識なのか。自分でもはっきりわかりませんが、そういうキャラクターの匂いを辿っています。

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渡辺謙はこの映画の大黒柱みたいな存在だ。その渡辺は、「李相日からキャスト、スタッフを守るのは、もう僕しかいないので(笑)。冗談ですけど」と発言している。宮﨑あおいはそんな彼に「いるだけで幸せな気持ちになる」と全幅の信頼を寄せていたという。

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Q 監督は宮﨑さんには「ブレーキをかけないで、全部剥がしてさらけだして」とおっしゃり、また広瀬すずさんには「そこにいるのが泉でない以上は、一日つぶしてでも泉を見つけていかなければいけない」と初日一度もカメラを回さなかったとうかがいました。俳優さんがなにかを掴む瞬間、なにを以てそうなるのだと思いますか?

A 演じると言うことは感覚だけでもダメだし、頭で考えるだけでもダメ。当然ですけど、若いうちはさらに頭で考えるだけでは難しいと思うんです。そこまでのストックはありませんから。でも想像して膨らませることには長けているはずなんです。ただ考えることが先行しすぎると、肩に力が入り、ギクシャクしてしまう。それでも僕は考えるのをやめさせないんです。で、いよいよ撮るよというところで全部捨てさせるという。

Q それは監督自身が体験的に得た演出ですよね?

A 教わってはいないですね。自分としては毎回、作品に合わせて必要な方法論を探しているつもりです。『怒り』まで3本、重たい作品が続いたのでたぶんそういう演出の精度は上がったかもしれません。次はちょっともう道を変えないと(笑)。今のやり方はやり尽した感があるので、別のベクトルで考えたいなと。

Q 成瀬巳喜男監督も初期には「喜劇の天才児」などと書かれています。現時点での評価と全く異なる。李監督も集大成でどう言われているかわかりませんね(笑)。

A なにかを成し遂げることができたかなあという思いが、いつも付きまといますね。

李相日(り・さんいる) 1974年新潟県生まれ。大学卒業後、日本映画学校に学ぶ。卒業制作『青chong』が2000年のぴあフィルムフェスティバルでグランプリほか4部門を独占。『フラガール』(06)で日本アカデミー賞最優秀作品賞、監督賞ほか受賞、第79回アカデミー賞外国語映画賞日本代表選出。代表作には、キネマ旬報ベスト・テン第1位ほかに輝いた『悪人』(10)、クリント・イーストウッドの傑作を明治初期の蝦夷地に置き換えてリメイクした『許されざる者』(13)などがある。

文=高村尚/Avanti Press