ソフトリリースや特集上映など、ここ数年〈日活ロマンポルノ〉への再評価の動きが出てきている。特に今年は、行定勲監督ら4人の映画監督による日活ロマンポルノ生誕45周年記念作品が製作されるほどで、例年以上に注目されている。〈日活ロマンポルノ〉は、経営不振にあえいでいた日活が起死回生の策として1971年から1988年までに製作していた成人映画群を指す。そこからは、のちに一般映画でも名作を生み出す監督や脚本家が輩出された。しかしそれは現在から見てのこと。そもそもリアルタイムでこのジャンルはどのように受け入れられ、どのような形で世に送り出されていったのだろうか。

『さよなら歌舞伎町』(2014)『花芯』(2016)などのプロデューサーとして知られる、成田尚哉氏。1975年から約10年間〈日活ロマンポルノ〉に企画部員として携わり、日々ネタ探しに奔走していた。「ブロック・ブッキングシステムを取り入れていたため、作品を上映する全国の専門館に月4本の新作を必ず送り出さなければいけない。そのため正月は寒いから芸者モノ、夏は綺麗なお姉さんがフンドシ姿になる海女モノなど事前にテーマを決める。先に決まったテーマやタイトルがあり、それに向かって映画が作られていく」。ブロック・ブッキングシステムは作品毎に劇場を確保する必要がないという利点もあるが、定期的に作品を送り出さなければならないので、製作上の遅延は許されないという緊張感もはらむ。

映画が作られ、劇場に上映されるまでの道のり

独立系映画会社が製作する成人映画(ピンク映画)の1作品(約60分)の予算は300万円程度、撮影は4日以内といわれている。それに比べて〈日活ロマンポルノ〉は1作品(約70分)で予算4千万円、撮影期間は2週間ほど。スタジオにはセットも立てるし、スタッフ陣はもともと日活で数々の一般映画を手掛けてきた職人たち。初期の頃には、ポルノ路線に舵を切ったことで日活から去っていく監督やスタッフもいたし、変装し変名を使う監督もいた。しかし撮影現場には捨て鉢な雰囲気はなく“ポルノ”であってもその土台にはしっかりとした映画作りの構造があった。そんなプロの現場に触れたことで、女優として目覚めていく新人女優も少なくなかったという。

劇場での上映形態は〈日活ロマンポルノ〉2本と、日活が買い取ったピンク映画の計3本立て2週間興業だった。「お客さんが入らなくても2週間なので打ち切りという事はないし、3本立ての狙いも3本あるからその中の1本でも面白いと思ってもらえれば…という発想。観客の方もふらっと劇場に入ってすべて見るわけでもなく、ふらっと出ていく。それがロマンポルノという膨大な運動体の流れであり、現在のように映画1本をしっかりと鑑賞するというような観方ではありませんでした」と独特な鑑賞状況を振り返る。

10分に1回の濡れ場…は都市伝説!?

〈日活ロマンポルノ〉が語られる際に必ずある“10分に1回の濡れ場があれば、あとは自由”という創作面でのルール。しかし成田氏は「少なくとも私が企画部にいる時代には聞いたことがないし、それは嘘だと思う。もちろん濡れ場ゼロではまずいけれど、脚本家も監督も“10分に1回の濡れ場”という意識で演出は絶対にしない。エロチックな表現は監督や脚本家の個性として表れ出るものですから、機械的に置くようなものでは決してない」と否定する。

成田氏の功績は、それまでの〈日活ロマンポルノ〉にはなかったスタイルを導入した点にある。「僕が入るまではしばらくの間社員を定期採用していなかったので、25歳くらいで入った僕の上が40代くらい。その世代はマンガも読んでいないし、情報量も20代と違う。世間では漫画『がきデカ』がヒットし、時代の潮流はギャグやパロディだったけれど、当時の企画部内では映画作り=文芸色が強く、おふざけのライト感やポップ感はなかった。その部分では、自分が出す企画は誰ともかぶらなかった」。成田氏はマンガや官能小説の映画化を積極的に企画し、橋本治原作の『桃尻娘』(1978)はシリーズ化、所ジョージとTHE ALFFEの坂崎幸之助が音楽を務めた『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』(1979)という今では考えられない座組みの珍作も生み出した。

映画監督・石井隆誕生秘話

佐藤浩市主演の『GONIN』(1995)で知られる石井隆監督を映画界に引き込んだのも、成田氏だ。劇画作家として活躍していた石井の漫画に惚れこんでいた成田氏は、劇画「天使のはらわた」の映画化権が他社に渡る3日前に石井本人に直談判し、映画化権を取得。曽根中生監督による『女高生 天使のはらわた』(1978)が誕生する。

シリーズ第2弾となる『天使のはらわた 赤い教室』(1979)では、脚本家として石井本人を起用。わら半紙に殴り書きされたかのようなシナリオは、非の打ちどころがなかった。その結果、村木(蟹江敬三)と名美(水原ゆう紀)のすれ違いが生む哀しみのメロドラマは、現在も〈日活ロマンポルノ〉が生んだ傑作の一つとして数えられている。その後、成田氏は石井を『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)で監督デビューさせ、石井に映画監督としての道を作った。

高評価の巨匠も興行面ではイマイチだった?

〈日活ロマンポルノ〉の代名詞的監督として語られる機会が多いのは、『恋人たちは濡れた』(1973)『赫い髪の女』(1979)の神代辰巳。当時もその作家性に注目する向きもあったが、評価と興業は必ずしも一致するものではなかった。「神代監督が何か賞をもらっても、社内的には冷淡なものでした。映画は作品であるのと同時に商品です。その商売を考える営業部としては、お客が入って成績を伸ばしてもらった方がいいわけですから、興業的に当たっていない監督がなぜ褒められるのか?という反発もあった」。

だが成田氏が「歴史に埋もれるかと思われたジャンルが復活したのは、作品の力があるからこそ」というように、神代監督ら質の高い作品を残した映画作家たちがいたからこそ、〈日活ロマンポルノ〉は再び光を当てられるようになったのだ。成田氏自身、ここ数年〈日活ロマンポルノ〉関連の寄稿依頼も増え、その再ブームを肌で感じている。その反面「神話化はしてほしくないですね。光が当たっている作品だけが〈日活ロマンポルノ〉ではなく、傑作も愚作もすべて含めて〈日活ロマンポルノ〉だということを知ってほしい」と訴える。

「巨匠といわれる監督の中にも愚作はあるし、埋もれた作品もたくさんある。中には一度も傑作を作れなかった監督だっている。しかしそのすべてが一生懸命作られたものであり、愛おしいもの。若い映画ファンには、評価された作品の裏側にある珍作・愚作にも目を向けてもらえれば」と話している。

(石井隼人)