臨床に研究に、ただでさえ超人的な能力を期待される医師。それにとどまらず、別の才能をも開花させている「スーパー医師」たちがいる。

 医師と並ぶ難関資格の双璧と言えば、司法試験だろう。日本における医師、弁護士の「ダブルライセンサー」の先駆けが、獨協学園の理事長を務める寺野彰氏(74)だ。

 少年時代は法学を修めて官僚になることを望んでいたが、母の強い意志に押し切られて、東京大学医学部に進学した。折しも学生運動真っ盛り、無給で不安定な卒業後のインターン制度の廃止などを唱え、闘士として名をはせた。そこで感じたのが、「医学は純粋科学ではない。社会問題抜きには語れない」ということだった。

●社会に根差した医師に

 卒業後、浜松市の病院に勤めていたときに結婚。東京に戻ろうかと考えた矢先に、近くで診療所を開いていた義父が倒れ、診療所を手伝うことになった。診療所では診療が忙しい上に、環境も整っていないため医学研究ができない。それならば、好きな法学を勉強しようとの思いが頭をもたげてきた。

 200キロ以上離れた東京まで車を駆って、山ほどの法律書を買い込んで帰った。診療の傍ら、ほぼ独学で3年目。司法試験に合格したのが32歳の時だった。

 2年間の司法修習を終えると、「どっちつかずになる」のを嫌って、軸足を医師業に戻した。消化器内科医としての腕前を一流と認められるまでに上げ、薬のように飲み込むだけで、大腸などの消化器の内部の画像を撮影できる「カプセル内視鏡」を日本に導入する立役者になった。また、獨協医科大学の病院長、学長を歴任した。

 だからといって、弁護士業も諦めたわけではなかった。1998年に弁護士登録し、主として患者から医療訴訟を持ちかけられた弁護士仲間の相談に乗った。今は週2回、弁護士の仕事をして、医療以外の事件を手掛けることもある。

「70歳も過ぎたことだし、法律に根差した社会活動をやるのもいい」

 そんな中でも、週1回の回診は欠かさない。「週に8日は欲しい」となお精力的だ。

 そんな寺野氏の背中を見て、古川俊治参院議員(自民党)らが後に続いた。そして、2004年の法科大学院開設で、いろんな経験を積んだ社会人に法曹界への門戸を広げようという動きが強まり、新世代の医師兼弁護士が次々と誕生している。

 浜松医科大学で医療法学を教える大磯義一郎教授(41)は、早稲田大学法科大学院の1期生だ。父が弁護士、父方の祖父が裁判官、母方の祖父も弁護士、とまさに法曹一家だったが、自身は99年に日本医科大学を卒業した。横浜市立大学病院の患者取り違えや、都立広尾病院の薬誤投与など医療事故が立て続けに起こり、医療不信が声高に叫ばれるようになった年に当たる。

 いま取り組んでいるのが、医療訴訟のデータベースの分析だ。医療事故では、患者と接する時間が長く、最終行為者となる若い医師が、当事者となることが多い。「同種の事故を防ぐことで、患者はもちろん、現場の若い医療従事者も救いたい」と考えたのだ。医学生への法学の教育に没頭する傍ら、週1回は内科のクリニックで診療も続けている。

●森鴎外から続く道

 作家兼医師の草分けは、陸軍軍医のトップにまでなりながら、旺盛な作家活動を展開した森?外だろうか。その?外に続けとばかり、その後も文壇に進出する医師は多い。

 現代の医療ミステリーの旗手で、15年秋に『破裂』『無痛』と相次いで作品がテレビドラマ化された久坂部羊(くさかべよう)氏(61)もその一人だ。

 作家を夢見る青年だったが、医師である父の勧めで大阪大学医学部に進んで外科医に。手の施しようがないがん患者への関心が薄くなりがちな大学病院で、緩和医療という言葉もない時代に手探りで終末期医療に挑む毎日。疲れ果て、海外をめざして外務省の医務官に応募。9年間の在外公館勤務という珍しい経験をまとめたエッセーが、本格的に作家デビューするきっかけになった。

 さらに帰国後、リハビリテーション施設や在宅医療で高齢者と向き合った経験から、虚構の世界を通じた問題提起をしようとの思いにつながった。『破裂』では、役人が高齢者を抹殺するという極端な世界を提示して反響を呼んだ。

 徐々に軸足を作家業に移したが、今も週1日、クリニックで非常勤勤務を続ける。「医師として育ててくれた人に報いる意味でも、責任を果たせる範囲で、診療は続けたい」

 TBSのテレビマンから医師に転身したのが、帚木蓬生(ははきぎほうせい)氏(69)。32歳で九州大学医学部を卒業し、精神科医院を開業。ギャンブル依存症の専門診療などに取り組みながら、作家業を続けている。『閉鎖病棟』(山本周五郎賞)のほか、『生きる力 森田正馬の15の提言』のような精神医学の専門書もある。

 08年に急性骨髄性白血病に倒れて入院したとき、生まれて初めて「3食昼寝つきの専業作家」になって、無菌室で『水神』(新田次郎文学賞)を書き上げた。快癒した後も年1作のペースを守り、テーマは医療にとどまらず、社会派の意欲作を送り出す。

 執筆には、医学を学んだ経験が大きく生かされている、と思っている。「まず患者を観察し、次に病気の由来をたどりつつ、資料を調べるなどして自分なりの考察を出す」のが医学なら、執筆でも書きたいテーマをよく見て、調べ、最後の段階で自分なりにそのテーマを「揺さぶってみる」ことが不可欠だからだ。

 医師としての診療は、よろず相談のようでも患者の役に立っていると思えるので、80歳ぐらいまでは続け、そして「小説家としては、遺言のつもりで1作品でも多く残せたら」と考えている。

●薬の「掲示板」で急成長

 起業を志す医師もいる。医師専用SNSのメドピアを起こした石見陽氏(42)は、現役の医師兼経営者。同社は今や医師会員10万人余りを抱えるまでに成長し、14年には東京証券取引所マザーズ市場に株式上場を果たした。

 母方の祖父、伯父、いとこと医師の多い家系に生まれた。2歳上の兄も医学部に進み、医師は身近な存在だった。99年に信州大学医学部を卒業し、循環器内科を専門に据えた。

 最初の起業は、大学院時代。研究で病棟勤務を一時的に離れることになり、空いた時間で、医師向け求人サイトを束ねるポータルサイトを立ち上げた。ITブームにも乗って順調に業績を伸ばし、それを元手に07年、医師同士が診療について自由に意見をやりとりできるサイトをオープンさせた。

 その翌年から、社長自ら学会を行脚して会員を勧誘した。出版社とも提携して会員が増えたところで、勝負に出た。グルメサイトの「薬版」とばかりに、医師向けに薬の口コミ掲示板を設けたのだ。そこに製薬会社が広告を出してくれるようになり、一気に利益体質に転換した。

「社長業」へのコミットを決意し、循環器内科医としての道を究めることは諦めたが、医師を辞めたわけではない。上場後も、週1回の外来勤務を続けている。現場感覚を持って医師のニーズをつかむことはもちろん、医療業界を変革していくためには「医療の中の人」であることに意味があるからだ。

「最終的に“患者を救う”のが会社の理念。全国の医師たちをつなぎ、その“集合知”で医療現場を変えたい」

●CGで治療を手助け

 11年に東京大学医学部を卒業した瀬尾拡史氏(31)は、CGクリエーターの顔も持つ。医学部在学中にデジタルハリウッドでCGも学び、臨床研修中にサイアメントという会社を設立した。

 もともと中学時代にテレビ番組で見たCGに感化され、面白くてためになる科学分野のCG制作で身を立てることを決めていた。医学部に進んだのもその延長線上にある。

「専門的な医学をちゃんと学びたかった」

 2年間の研修医生活を終えた後、診療からはすっぱり手を引いたが、これまでの医学知識や人脈をフル活用してCG制作に挑む。例えば、12年から開発に取り組む気管支鏡検査のシミュレーション用の3次元CGは、医師が事前に見ることで、手術や検査の時間を短縮し、患者の負担を減らすこともできる。

「優秀な医師は世の中に大勢いるので、患者さんの治療は任せればいい。僕は単にコンテンツを作るだけでなく、治療や診断に役立つことを目指す」

 医学部は、究極の「職業訓練校」でもある。しかし、医学部を卒業することは、医師以外の道を閉ざすことではなく、むしろ地平線を広げる可能性を秘めていることを、出会ったスーパー医師たちは教えてくれたような気がする。(ジャーナリスト・塚崎朝子)

※AERA 2016年10月3日号