作家・北原みのり氏の週刊朝日連載「ニッポンスッポンポンNEO」。北原氏は、先週に引き続き、「うな子」動画問題を取り上げる。

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「閉塞感」という言葉を、少し前までよく使っていた気がする。文字通り、閉ざされていて、塞がれていて、逃れられないような息苦しさ。今の社会の空気を表すのに、それ以外の言葉で表現できないと感じることが多々あった。

 最近、ふと、あれ? 「閉塞感」を超えたな……と思う瞬間が増えている。それはべつに、閉塞感が薄れ、明るい空が見えてきた、手足を思い切り動かせる自由の風がふいてきたとか、そんな軽やかな感じになったわけではない。むしろ閉塞感を思い切り深めた後には、こんな空気が待っていたんだ、と呆然とするような感じ。

 世間ではもしかしたらすぐに忘れられてしまうのかもしれないが、私はしばらく「うな子」(スクール水着の少女をエロスたっぷりに描くうなぎのPR)をひきずりそうな気がする。というのも、あれは、日本の閉塞感が行き着いた先の狂気だと感じるからだ。

 ここ数年、確かにエロの公共化は加速してきていた。三重県志摩市の海女の萌えキャラ(濡れた海女服で乳首見えそうなキャラ)や、岐阜県美濃加茂市の観光協会が制作した“超巨乳”(顔より大きい)の萌えキャラなど。だけど、「うな子」はちょっと別格だ。洗練された性差別、エスタブリッシュな暴力、そんな「アート」感も含めて行き着いた感がある。

 さらに「うな子」について、「何が悪いのかわからない」「あれは性差別ではない」と考える女性が少なくないことも衝撃だ。私の周りでも、「だって、キレイな映像じゃん」とか、「あれが男の子だったら性差別にならないでしょう?」とうな子を肯定する女性たち。キレイな映像だから不快じゃないとか、登場人物を男の子に置き換えた時に問題にならなければ性差別ではない、とか。その理屈に、私は恐怖に近いものを感じる。

「うな子」表現を差別だと認識できない人は、差別というものを、もしかしたら、どのような時代でも文化でも社会でも普遍的に定義できる明快な状態だと思っているのかもしれない。または、差別・差別ではないの狭間に、誰もがわかる線が引かれているとでも。そして、そのように差別を捉えたら、確かに「うな子」は難解かもしれない。なぜなら、うな子が発する「養って」という言葉そのものが差別というわけじゃない。スクール水着そのものがエロというわけではない。

 スクール水着といった「記号」が射精産業で娯楽として消費され、男の性欲を守るための仕掛けが社会装置で機能している社会で、さらに少女監禁事件が度々起きる社会で、あの映像は差別として認識できるのだ。差別とは意味の積み重ねであり、暴力そのものなのだ。例えばあれがスクール水着を着た男性だったら、性差別とは言わないだろう。児童虐待であっても性差別ではない。男女を逆転して考えても、何の意味ももたないこと自体が、性差別の本質なのだ。こんなことも通じなくなっている社会。閉塞感という言葉では足りない、恐怖感が深まっている。

※週刊朝日  2016年10月21日号