米同時多発テロから15年を迎えた追悼式典で、米大統領選の民主党候補ヒラリー・クリントン氏が体調不良を訴えた。奇しくも選挙の流れがここで変わった。

 紺のスーツ姿のクリントン氏の真後ろでは、若い女性スタッフが、足を交差させ、のんびりと専用車を待っている。数秒後、専用車が着きドアが開いたが、クリントン氏は前に歩くことができず、頭がガクッと崩れ落ちた瞬間、シークレットサービスが周りを囲み、クリントン氏が見えなくなった。

 クリントン氏は9月11日午前8時過ぎからニューヨークで同時多発テロの追悼式典に参加していたが、約90分後に退席した。冒頭のシーンは、報道陣が、急に退席したクリントン氏を捜していた間、同氏の支援者がスマートフォンで撮影し、ツイッターにアップロードした20秒の衝撃的なビデオだ。なぜなら、この映像が撮られた追悼式典の前から、クリントン氏の健康問題について、ライバルのドナルド・トランプ共和党候補が「大統領になっても、スタミナがない」と攻撃を強めていたからだ。また、このビデオさえなければ、クリントン陣営は、同氏が2日前に肺炎と診断されたことを公表しないでいただろう。

●ガクガク首を振る映像

 トランプ氏の攻撃は、保守派メディアサイト「ブライトバート」などを通じて急速に有権者に伝わった。最もよく見られたビデオは7月21日に撮影されたもので、メディアのぶら下がり取材中、目を開いたり閉じたりしながら、ガクガクと首を振る映像で、何らかの発作を推測させるものだ。こうしたビデオから、クリントン氏は、2012年の脳振盪(しんとう)と血栓による「脳の後遺症」、あるいは「パーキンソン病」「メニエール病」などではという臆測が、ネットで出回っていた。その最中、抱えられながら9.11式典を中途退席したクリントン氏は、数時間後に休息していた娘チェルシーさんのアパート前で手を振って、回復をアピール。同日中に主治医が声明を発表し、肺炎であることも初めて公表した。

「2日前の金曜日に肺炎と診断し、抗生物質を投与している。本日の式典では、暑さと脱水症状が影響した。診断の結果、水分を補給し、順調に回復している」

●「替え玉」で死亡説まで

 しかし、今度はチェルシーさんのアパート前に現れたクリントン氏が「替え玉」の可能性があると、保守派メディアが報じ、死亡説まで流れた。根拠は、クリントン氏の顔や首にシワが少なかったこと、紺のスーツがピチピチではなく、余裕があり、痩せて見えたことなどだ。

 今年の選挙戦が特殊なのは、両候補者が高齢なことだ。トランプ氏が当選すれば、70歳と最高齢で大統領に就任、クリントン氏であれば、69歳で史上2番目の高齢で就任となる。オバマ大統領は08年の投開票日時点で、47歳だった。このため、専門家の間では今後、大統領候補は、健康診断書を公表すべきだという声が上がっている。

 過去に健康に問題を抱えた大統領がいなかったわけではない。J・F・ケネディ第35代大統領は、時に杖をつくほどの腰痛とホルモン異常があった。フランクリン・ルーズベルト第32代大統領も、病気の後遺症で車椅子生活を続け、4選した直後、在任中に脳卒中で死亡した。

 しかし、今回の選挙戦で、トランプ氏という、有権者から注目を浴びる過激な発言を続ける候補者が登場し、今までにない熾烈な選挙戦が展開。政策に対する批判ではなく、クリントン氏の健康問題を取りざたしている最中に、同氏が体調不良に陥ったのは、まさにトランプ氏の「罠」にはまったともいえる。

 奇しくも、クリントン氏が勝つ確率というのは、8月上旬に90%だったのが、9月11日に79%にまで低下している(米紙ニューヨーク・タイムズ)。クリントン氏にとっては、体調不良を訴えたことが、さらなる厳しい戦いを約束することになり、9.11が運命の日になってしまった。(ジャーナリスト・津山恵子)

※AERA 2016年9月26日号