NHK総合で今夜9時から土曜ドラマ「夏目漱石の妻」(連続4回)が始まる。これは今年12月に漱石の没後100年を迎えるのにあわせてのものだろう。今回のドラマのヒロインで、尾野真千子が演じる漱石夫人・夏目鏡子(旧姓・中根)に対しては、世間には悪妻呼ばわりする人もいる。彼女が今回のドラマでどのように描かれるのか、気になるところだ。

来年2月には漱石生誕150年という節目も迎える。このドラマ以外にも、今年から来年にかけては各方面で漱石にちなんだ企画が目白押しだ。なかでも最大の目玉は、来年9月に予定される「(仮称)『漱石山房』記念館」(東京都新宿区早稲田南町)のオープンだろう。記念館が建つのは、漱石が亡くなるまでの10年間をすごした旧居「漱石山房」のあった場所である。漱石山房は戦災で失われ、その敷地は戦後、東京都が買い取り、さらには新宿区に移管されて一部が区営住宅と区立漱石公園になっていた。記念館では漱石山房の一部を再現して展示する予定だという。


漱石の父、自宅の前の坂に名前をつける


漱石山房があった場所は、漱石の生誕地(同区喜久井町)と目と鼻の先である。ちなみに生誕地近くを通る坂道は「夏目坂」と呼ばれる。これはもちろん漱石にちなんだ命名だろうと思いきや、さにあらず、漱石の父・夏目直克が明治初めにつけたものだという。

夏目家は江戸時代、牛込見附(現在のJR飯田橋駅付近)から高田馬場一帯を管轄してきた大名主だった。しかし明治維新で形勢は一転、不安に駆られた直克は、せめて夏目家の痕跡をとどめておきたい一心で、どさくさにまぎれて、家の前の坂を夏目坂、さらに家の周辺を夏目家の家紋(井桁に菊=菊水)から喜久井町と名づけたというのだ。これは半藤末利子のエッセイ集『漱石の長襦袢』(文春文庫)に書かれている。漱石の孫にあたる末利子は、この話を母の筆子(漱石夫妻の長女)から子供のころより聞かされていたとか。

関東大震災後に持ち上がった“漱石記念館”計画


『漱石の長襦袢』によれば、じつは、漱石山房を保存して記念館にしようという構想は、いまから90年以上前、1923年にも持ち上がったことがあったという。そもそもの発案者は、漱石の晩年の弟子で、1918年に長女・筆子と結婚した松岡譲(つまり半藤末利子の父親)だ。

松岡は、漱石亡きあと家には女と子供しかおらず何かと物騒だからと鏡子に請われて、妻の家族と同居していた。といっても婿養子ではなく、いわば『サザエさん』のマスオさんと同じ境遇だ。その松岡は夏目家に入った以上、漱石山房を何とかして守らねばならないと考えるようになる。そのために土地と一式で大家から買い取った。鏡子はこの敷地に旧居の3倍も大きい新居を建てたのだが、それでも山房は「いずれ公に帰すべきもの」と松岡が説得、漱石の遺品ともども、そっくりそのまま屋敷内の東南へ移動された。

このあと、隣家の火災、さらには関東大震災が起こり、危機感を募らせた松岡は、いずれ安全な場所に移すほうが賢明であろうと考えるようになる。移築したあとは、その脇に不燃建造物でも建てて、そこに漱石の蔵書や遺品を展示する記念館を設けようという構想が松岡のなかでしだいにふくらんでいった。そして彼はある結論に達する。それは、当時の東京市に話を持ち込むよりも、ひとまず漱石の門下生や友人らで構成される「九日会」に買い取ってもらおうという案だった。

幸いにも、このころ田園都市(現・東急電鉄)という会社で田園調布の開発を進めていた渋沢秀雄が敷地を提供すると、漱石門下の作家・鈴木三重吉を介して申し出てくれた。現地を見てすっかり気に入った松岡・鈴木・鏡子は、震災直後の1923年11月から12月にかけて2度、九日会の面々に山房へ集まってもらい、あらためてこの計画への協力を呼びかけている。

だが、弟子たちの反応は鈍かった。松岡は、弟子のなかでも兄貴格の寺田寅彦あたりがすぐに受け入れて、話をまとめてくれるものと思っていたが、当の寅彦は、「先生は一生安家賃の借家住まいに甘んじていたのに、遺族は高級住宅か」などと不平混じりで語り始め、返答を避けたという。2度目の会合も、初日と変わらず、弟子たちは愚痴話に終始し、ついに鏡子の堪忍袋の緒が切れ、この話はなかったことになってしまった。

鏡子に不信を募らせた漱石の弟子たち


鏡子が協力を求めたとき、門下生、とりわけ古株の弟子たちの反応が鈍かったのは、両者のあいだに亀裂が生じていたことが背景にあるという。その発端は、漱石の葬儀までさかのぼるらしい。このとき、弟子たちは自分らで中心になって葬儀を取り仕切ろうとしたものの、例によって一言居士がおのおの意見を言い出して、話はまとまりそうになかった。急を要する場合だけに鏡子は、葬儀の段取りの一切は義弟で建築家の鈴木禎次にまかせると言い切り、弟子たちには受付や式場内での案内などをやってもらうことにした。

ところが、式場内での案内役を務めた小宮豊隆と松根東洋城が、参列した漱石の実兄に焼香させるのを忘れるという大失態をやらかす。これに鏡子は涙ながらに叱責したという。

門下生も一枚岩ではなかった。生前の漱石は弟子たちを古参、新参と問わず平等に扱おうとしたにもかかわらず、古参の弟子たちは、松岡譲や芥川龍之介など若い弟子たちに対してことあるごとに先輩風を吹かせたらしい。漱石没後、松岡はじめ新参者たちと急速に親しくなった鏡子は、彼らを何かにつけてかばっていたという。《それがまた古参連中の神経を苛立たせ、忌々しい悪妻と小癪な若造どもめという図となったに違いない》と半藤末利子は書く。

悪いことに、漱石の全集が売れまくり大金が入ると、もともと裕福な家の出である鏡子は、大きな新居を建てるなど浪費を始めた。それが「先生は血を吐くほどの思いで小説を書いていたのに」と弟子たちの反感を募らせることになる。寺田寅彦が、山房移築の呼びかけに対して不平を漏らしたのも、こうした事情があった。

文章と人柄は別物!?


漱石山房の移築保存が実現しなかったのは、弟子と遺族のすれ違いによるところが大きい。鏡子が悪妻というイメージも、一部の弟子たちが彼女への不信から流布し、定着してしまったものらしい。もっとも、当の鏡子は、《あれほど悪妻呼ばわりされても、自己弁護をしたり折をみて反論を試みようなどとはしない人であった》という(半藤末利子「解説」、夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思い出』文春文庫)。

寺田寅彦や小宮豊隆など古参の弟子たちに憤っていたのは、むしろ娘の筆子たちだった。半藤末利子は、筆子ら姉弟から彼らへの褒め言葉をほとんど聞いたことがないとまで書いている。その弟子たちも夏目家に出入りし始めたころには、幼かった子供たちとよく遊んでくれたというから、漱石が亡くなってからの態度とのギャップがよっぽど大きかったのだろう。

末利子は、山房保存に向けての父・松岡譲の情熱を書くにあたり、松岡の『ああ漱石山房』を参照にしている。ただし、彼女に言わせれば、父の本は高弟に遠慮しすぎて歯がゆくてたまらないという。そんな父の本音を代弁すべく、『漱石の長襦袢』における一部の弟子たちへの評価はかなり辛辣なものとなっている。

たとえば、末利子が然る作家の文章教室に通ったときの話に、私は思わず笑ってしまった。その作家は、《しみじみとした人柄を感じさせる文章を読んだからといって、それを書いた人がよい人だなんて思っちゃいけません。騙されてはいけません。いいですか、皆さん、文章と人柄は別なんですよ》と念を押すように言ったらしいのだが、それを聞いて彼女が思い浮かべたのは、寺田寅彦の顔だったという。

ともあれ、松岡の夢は、完全な形ではないものの、90年あまりを経てようやく日の目を見ようとしている。これを機に、弟子たちと遺族のわだかまりも解けることを願わずにはいられない。
(近藤正高)