NHKの連続テレビ小説「とと姉ちゃん」もいよいよきょうで最終回を迎えた。昨日放送分では、唐沢寿明演じる「あなたの暮し」編集長の花山伊佐次がついに亡くなってしまった。


今回のドラマをきっかけに、花山のモチーフとなった「暮しの手帖」の創刊編集長の花森安治も再注目された。花森をめぐってはあまたの伝説がある。せっかくなので、そのうち以下の3つについて真相を検証してみたい。

【1】スカートをはいたり髪を伸ばしたりして、女性と間違えられることもあった
【2】『暮しの手帖』に広告を一切載せなかった
【3】大政翼賛会で戦時体制に協力したことへの反省から、戦後は権力に抵抗し、反戦を訴え続けた

いずれもドラマのなかでとりあげられたものばかりだ。【1】については、花山が女性の気持ちを知りたいと思ってスカートをはいてみたというエピソードが出てきた。だが、それはあくまでドラマの話。現実に、花森安治のスカート姿を見た人はいないという。「スカート伝説」は、どうも勘違いから流布されたものらしい。

花森安治は本当にスカートをはいたのか?


酒井寛の評伝『花森安治の仕事』(朝日文庫)によれば、幅の広いキュロットや、スコットランド兵でおなじみのキルトをはいていたことはあったという。他方、「とと姉ちゃん」のヒロイン・常子のモチーフである大橋鎭子にいたっては、花森は太っていたので夏にはいていた半ズボンのすそが広がってキュロットのように見えただけだと証言している(津野海太郎『花森安治伝 日本の暮しをかえた男』新潮文庫)。

伝説が流布される発端は、「週刊朝日」の記事のなかで漫画家・横山泰三が描いた挿絵らしい。そこには女性用トイレの前に立つスカート姿の花森が描かれていた。同誌の記者にその真偽を確認された花森は、ただ笑ってすませてしまったため、事実として広まってしまったという(丸山邦男「花森安治」、『人物昭和史』ちくま文庫)。

ただし、スカートこそはかなかったものの、花森が女性によく間違えられたというのは事実のようだ。当時の花森の写真を見るとたしかに、女装とはいかないまでも、長髪にパーマをあてるなど「男のおばさん」という趣きがある。ある女性代議士と対談した際には、相手を最後まで花森が女と思いこませることに“成功”したという話もあるほどだ。対談の終わりがけ、代議士から「あんた、旦那さん、あるんか」と訊かれ、花森は苦笑しながら「どうやら化け通せたかな」と一人ごちたというからおかしい。

それにしても花森はなぜ、「男か女かよくわからない」格好をしたのか。これについては「はったり」という見方や、あるいは、戦時中、大政翼賛会で戦時体制に協力したことへの反省とする見方もある。花森自身は、対談などに出るたび《女はスカート、男はズボン、という区別はおかしい、なにを着てもいいんだ、と得意の衣装論と既成観念の打破をぶっていた》というから(酒井、前掲書)、その実践という意味合いもあったのだろう。

じつは花森は、創刊まもない「暮しの手帖」(当時は「美しい暮らしの手帖」)で、スカートについて懐疑的な文章を書いている(第14号、1951年12月)。そこで花森がまず投げかけたのは、「女性が冬の寒い日に外で働くために、はたしてスカートという形が一番いいものかどうか」という疑問であった。

さらに花森は、スカートをはじめ女性の服装の根底には、男性の欲求に応じるがままに、わが身を美しく飾ろうとする意識が強く働いてはいないかと問題提起している。

《男の体と女の体と、どちらが美しいかと、ここで決める必要はないが、少くとも男の今日の服装には、女の目を喜ばせるために、わざわざ肉体を露出するというデザインはない。それを、なぜ女だけが、自分の体の一部をことさらに、不自然なまでに露出して、それを、まるで賣りもののように見せて歩かねばならないのであろうか》

花森は男女の服装の“不平等”を突いたのである。なお花森は、べつの号では女性に対してスラックスの着用を推奨している(「美しい暮しの手帖」18号、1952年12月)。花森がスカートと間違われるような格好をし、勘違いされても否定しなかったのには、やはり「女性の服装=スカート」という固定観念を打ち破ろうという思いがどこかにあったに違いない。

スポンサーの圧力より花森が恐れたもの


【2】の自分の雑誌に広告を入れなかったという話も、ドラマのなかでかなり重要な要素として扱われていた。実際、「暮しの手帖」には創刊以来、現在にいたるまで他社の広告が掲載されたことはない。その理由を、花森は1969年に「暮しの手帖」が100号に達したとき、同誌の名物企画「商品テスト」についての文章のなかで次のように説明している。

《理由は二つ。一つは、編集者として、表紙から裏表紙まで全部の頁を自分の手の中に握っていたい。広告は土足で踏み込んでくるようなもの。そんなことに耐えられない。もう一つは、広告をのせることで、スポンサーの圧力がかかる、それは絶対に困る。〈商品テスト〉は絶対にヒモつきであってはならない》

ドラマでは後者がピックアップされ、広告を入れたせいで問題が起きてしまうというエピソードも出てきた。だが、花森にとってそれはあくまで二つ目の理由だ。「スポンサーの圧力がかかるから」というのは、おそらく商品テストの企画を始めてから浮上したものではなかったか。

花森にしてみれば、何よりもまず、自ら手を加える余地のないものが自分の雑誌に「土足で踏み込んでくる」ことが耐えられなかったのだ。そもそも花森は化粧品会社の宣伝部の広告制作者として出発している。《だから、美しくない広告をにくむ気持ちが、人一倍強かったのだろう。美しくない広告で、自分の「美しい雑誌」が汚されるのは、この人には、どうしても許せないことだったに違いない》とは、「広告批評」創刊編集長の天野祐吉の言である(「花森安治」、『現代日本 朝日人物事典』朝日新聞社)。

戦時スローガンをめぐる伝説と事実


ここに引用した天野の短い評伝は、花森安治についてさまざまな示唆に富んでいる。そこでは、「花森は美意識の人であり、それが高じるがあまり思想にまでなってしまったような人」と定義されていた。「暮しの手帖」が一貫して売ってきたのも「暮らしの美意識」であったし、花森が批判し続けてきたのは「悪いもの」ではなく、この世の中の「美しくないもの」であった。

ここから天野は、「花森が戦後、権力に対抗して庶民の暮らしを守ろうという姿勢を打ち出したのは、戦時中の大政翼賛会での仕事の罪滅ぼしみたいな気持ちからだったのではないか」との見方にも異を唱える。本記事の冒頭で3つ目にあげた伝説だ。天野は、花森が大政翼賛会における戦時スローガンの一般公募に際して、「欲しがりません、勝つまでは」を1等に選んだという話を引き合いに以下のように書いている。

《『暮しの手帖』の基本姿勢もまた、「欲しがりません、勝つまでは」である。「勝つまでは」の相手が、戦争中は敵国だったのに対して、戦後はメーカーにかわっただけの話だ。戦前、戦中、戦後を通じて、こんなに一貫した考え方を持ち続けている人は、めったにいない》(前掲)

思い切った見方だが、これは、花森の生前に評論家の大宅壮一が《彼は、感情やイデオロギーによって動かされるような、思想人でもなく、感情人でもない。スイッチのきりかえ一つで、まるで人造人間のように、目的意識的に行動する。時代に焦点を精密にあわせるそのネライは、実に正確なものだ》と評したのと通じる(「サンデー毎日」1954年7月25日号)。

ひとつ付け加えておくと、「欲しがりません、勝つまでは」について花森は後年、「暮しの手帖」の編集部員を前に《当時、三十になるかならぬかの若僧のぼくに、そんなものを選べるはずがないじゃないか》と語っていたという(酒井、前掲書)。どうやら「花森が1等に選んだ」というのもまた伝説にすぎないようだ。

とはいえ、こうしたスローガンをポスターに使うにあたり、小学生の稚拙な文字で書かせたのは、ほかならぬ花森であった(「サンデー毎日」前掲号)。紋切型のスローガンをいかに効果的に伝えるか。大宅壮一の言葉どおり、まさに「目的意識的に行動する」人、花森安治の真骨頂であった。少なくともその姿勢は、戦後も変わらなかったといえる。

花森がもし福島原発事故のあとまで生きていたなら…


ただ、戦争や権力に対するとらえ方は、花森のなかでしだいに変わっていった。きっかけとなったのはおそらく、1969年に心筋梗塞で倒れ、先は長くないと悟ったときではないか。ドラマでも描かれていたように、病気療養中に花森は、読者から戦争体験を募集して一冊にまとめ、さらに『一戔五厘の旗』(1971年)というエッセイ集では戦争などに対する自らの態度を表明している(その一節はドラマでも引用されていた)。

じつはそれまで花森は、戦争を含め政治や社会を直接的に批判してはこなかった。社会学者の桜井哲夫の言葉を借りるなら、《政治が目を向けない小さな対象こそが、「暮しの手帖」のフィールドであった》からだ(桜井哲夫『増補 可能性としての「戦後」』平凡社ライブラリー)。そのことは、1960年の日米安保条約の改定をめぐり反対デモが盛んに行なわれていたころ、「暮しの手帖」でも編集部員からデモの特集を提案されたのに対し、花森が《そんなものはマスターベーションにすぎない!》《そういうことは、NHKや朝日[新聞]や「世界」[岩波書店の雑誌]に任せておけばいい。僕らは便所の隅っこにあるゴミをどうするのかということをやるんだ》と言ってしりぞけたというエピソードからも裏づけられる(「週刊朝日」2016年9月23日号)。

花森のなかではきっと、政治に対し直接的に訴えるよりも、美しい生活を追求し、実現していくことこそ世の中を変えるのだという信念があったはずだ。だが、それが『一戔五厘の旗』を上梓した前後から変わり始める。花森は、戦争のほか、当時深刻化していた公害に対しても、国家や企業を声高に批判するようになったのだ。これについて前出の桜井は、《今、そうした文章を読み返すと、どれも性急であり、直接的なモノのいい方が興をそいでいる》と手厳しい(桜井、前掲書)。

前掲の津野海太郎『花森安治伝』によれば、花森のこうした変化の背景には、病気だけでなく、公害に対する責任から企業や政府が逃げ続けていることへの怒りがあったらしい。かつて商品テストを通して製品の品質の向上に貢献してきたという自負を持つ花森には、企業がこのまま責任から逃れようとするなら、自分たちまでもが共犯者にされかねないと忸怩たる思いがあったというのだ。

『一戔五厘の旗』でも「企業を倒せ」「政府を倒せ」と書いた彼は、じつはより具体的に公害企業の名をあげながら、《ここまできてもまだ責任を逃れようとする新日本窒素肥料や昭和電工を倒せ。これらの企業をまもるべく明確な意思表示を避け、われわれの暮しをないがしろにしてきた政府を倒せ》と言っていたという。津野海太郎はこの言葉を福島原発事故後の日本に当てはめ、《東京電力を倒せ、いつまでもあいまいな態度をとりつづける政治家たちから権力をうばえ、と百万雑誌の編集長が公然といってのけたようなもの》とたとえている(津野、前掲書)。

そういえば、東日本大震災のあと、原発事故について言及を避けた「暮しの手帖」が一部で批判されたことを思い出す。そのなかには、花森安治の精神はどこへいったのかと嘆く声もあったと記憶する。

たしかに『一戔五厘の旗』以降の花森であれば(あの事故のころまで生きていたと仮定して)、津野が書いたとおり、電力会社や政府を厳しく非難したことだろう。しかし、それ以前の花森、たとえば60年安保に際して「僕らは便所の隅っこにあるゴミをどうするのかということをやるんだ」と息巻いていたころの彼なら、どうしただろうか? ひょっとすると、直接的な批判はせず、むしろ原発に頼らない生活を実現するため、具体的な知恵や工夫を提唱していたのではないか。私にはそんな気がしてならない。

「職人」としての花森安治


ここまで見てきたとおり、花森に対してはさまざまな見方がある。いまひとつ紹介するなら、大政翼賛会の同僚だったある人物は、花森をこんなふうに彼を評していた。

《彼は職人に徹していた。思想などというものは持ち合わせていなかったけれど、目の前に与えられた仕事の遂行については、人並み以上に勤勉で、全力を集中しなければ気のすまない男だった》(「中央公論」1978年6月号)

職人。これほど、花森安治のあり方を戦前・戦中・戦後と通して言い表すのにふさわしい言葉はないかもしれない。職人だからこそ、自分のめざす美というものをひたすらに追求し続けたのだと考えれば納得がゆく。晩年に訴えた反戦や反公害も、その美を壊すものへの抵抗であったと解釈できるのではないか。

ちなみに花森を「職人に徹していた」と評したのは岩堀喜之助という人物で、戦後、やはり大政翼賛会にいた清水達夫と組んで凡人社という会社を設立し、芸能娯楽雑誌「平凡」を大ヒットさせている。凡人社はその後、平凡出版、さらにはマガジンハウスと名前を変え、「平凡パンチ」「anan」「ポパイ」「クロワッサン」などといった多くの雑誌を送り出し、若い世代を中心に人々のライフスタイルに大きな影響を与えた(そういえば、「とと姉ちゃん」でも病床の花山が「anan」っぽい雑誌を手に取るカットがあった)。

次々に登場する製品、ファッションをカタログのように紹介しながら、新しいライフスタイルを提示したマガジンハウスの雑誌は、ふんだんな広告収入によって支えられてきた。「暮しの手帖」とは何もかも対照的だが、両社のルーツがいずれも大政翼賛会に求められるのは興味深い。今後また出版社を舞台にドラマをつくることがあれば、マガジンハウスの側から戦後史を描いたら、面白いものになるかもしれない。
(近藤正高)