バックパスの定義はGKへ意図的に戻すパス

 知っているようでよく理解できていない、そんなサッカー用語を普段見聞きしていることはないだろうか。語彙の面からサッカーに迫ることで、より深い理解が可能になるかもしれない。今回は「バックパス」をキーワードに、GKのプレースタイルについて考える。(文:実川元子)

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「バックパス」back-passを英和辞典で引いてみた。ランダムハウス、リーダース、ウィスダムにその言葉はない。英英辞典はどうかとオックスフォード上級学習者用辞典(OALD)も調べたが、ない。

 紙の辞典を諦めてインターネットで調べると、オックスフォード現代語辞典に「味方からゴールキーパーへの意図的なパス(ゴールキーパーが蹴らないで手を使って受け取れば反則になる)」とあった。コリンズ、ケンブリッジ現代語辞典のどれもが「味方からゴールキーパーへの意図的なパス」と定義している。つい、後方にいる味方に戻すパスすべてをバックパスと考えてしまいがちなのだが、英語のback-passの定義では、パックパスの受け手はゴールキーパーだけなのだ。

 2008年、当時日本サッカー協会の会長だった犬飼基昭氏が「バックパスをした選手は交代させるように」という通達を出した。いわゆる「バックパス禁止令」である。恐らく犬飼氏も、通達を受けたチームやファンたちも、バックパスとは後方にいる味方に戻すパスを考えていただろう。

 試合を停滞させてしまうバックパスを禁止したくなる気持ちはわかるけれど、サッカーの戦術的にはいくらなんでも無理な命令でしょ、と反対者が多く、いつの間にか禁止令はうやむやになった。

バックパス・ルール導入の契機になった時間稼ぎ事件

 FIFAが1992年に「バックパス・ルール」の制定に踏み切った原因は、GKが重要な試合で信じられないほど長時間の時間稼ぎをしたことにあった。1990年ワールドカップイタリア大会、グループリーグ第2戦、エジプト対アイルランド戦でのこと。0-0で迎えた終盤、アイルランドのGKパッキー・ボナーが合計6分間にわたってボールを手放さなかったことが物議を醸した。

 1994年アメリカでのワールドカップ開催を前に、サッカーを興行ビジネスとして大きく飛躍させようとしていたFIFAとしては、試合の興をそぐようなプレーを見過ごすわけにはいかなかった。特にテレビの放映権料が大きな収入源となりつつあった時期に、サッカーをあまり知らない人たち(つまりアメリカ人)がテレビで試合を見て、サッカーへの興味を失ってしまうリスクは避けたい。

 そこで1992年欧州選手権の開催前に「バックパス・ルール」が制定された。「サッカー競技規則」([公財]日本サッカー協会)には「味方競技者が意図的にゴールキーパーにキックしたボールにゴールキーパーが手または腕で触れた場合」に反則をとる、と書かれている。

 FIFAのホームページで紹介されているサッカーの歴史においても、バックパス・ルールの制定はオフサイド・ルール、レフェリーの役割の明記、ゴールネットの導入と並ぶ画期的なルール改正として取り上げられている。

 きっかけはパッキー・ボナーの6分間ボールキープ事件だったかもしれないが、守備の時間稼ぎのためにGKにボールを戻してキープさせることをよしとしない監督は以前からいた。ヨハン・クライフがその代表だ。

 クライフがGKに求めたのは「反射神経や信頼感やポジショニングではなく、『ヴィジョン』」である。(ジョナサン・ウィルソン『孤高の守護神 ゴールキーパー進化論』)。ウィルソンは「クライフの言うヴィジョンとは、危機予測の感度ではなく、攻撃の起点となる構想力を指している」としている。

 クライフは、ゴールラインに張り付いているGKが気に入らなかった。GKはペナルティエリアぎりぎりのところにポジションを取り、味方に指示を出し、90分間に6、7回はペナルティエリアから飛び出してクリアするくらいの気概がないといけない、と考えていた。

クライフの攻撃的戦術におけるGK観

 サッカーの面白さ、美しさは攻撃にある、としていたクライフだから、フィールドプレーヤーは当然ながら、GKもチームの一員として攻撃に参加すべきである、と主張したわけだ。GKがバックパスを抱え込んで時間稼ぎをするなど、クライフは許せなかっただろう。

 1985年アヤックス監督に就任したクライフは「(GKは)グローブをつけたフィールドプレーヤーであるべきだ」と宣言した、とサイモン・クーパーは書いている。だが、理想を追い求め過ぎたためか、クライフが監督をつとめていた3年間にアヤックスはリーグ優勝がかなわなかった。

 高い位置にポジションを取り、DFの裏をついてきた相手FWの攻撃をカットし、攻撃の起点ともなるGKは「スイーパーキーパー」と呼ばれ、バックパス・ルール制定前から特に攻撃的なチームで活躍していた。そしてバックパス・ルール制定以降、異端視されていたスイーパーキーパーは、どちらかと言うと現代サッカーが求めるGK像へと変わっていく。

 その背景には、バックパス・ルール制定でGKにフィールドプレーヤーに劣らない足元の技術が求められるようになったことがある。バックパスをただ蹴り返すだけでなく、味方の攻撃につながるようなパスが出せるよう、試合を読む力も求められるようになった。クライフが予言したように、バックパス・ルールはGKにフィールドプレーヤーと並ぶ役割を与えることになった、と言えるのではないか。

 バックパス・ルール制定後、GKはゴールライン上に四六時中張り付いているわけにはいかなくなった。ときにはペナルティエリアから飛び出して相手攻撃の芽をつめるように、高い位置でのポジショニングが求められる。

 GKが高い位置にポジションをとることで、ディフェンスラインの背後のスペースを消す効果があるだけでなく、バックパスを受けてから攻撃に向けてつぎのパスの出し手となることができる。

 手が使える「フィールドプレーヤー」が一人加わることで、攻撃は厚みを増す。バックパス・ルールはGKの役割だけでなく、チーム戦術も大きく変えた、と考えられている。

昔も今も嫌われる守備のためのバックパス

 だが一方で、GKの役割はほとんど変わっていない、という意見もある。1974年西ドイツワールドカップと2014年ブラジルワールドカップでのGKのプレーを比較すると、バックパスを足元で受けるか、キャッチして味方に手で渡すかの違いだけで、そのほかはほとんど変わっていなかった、というデータがあるそうだ。

 GKの仕事はあくまでも敵にゴールを割らさないことであり、ポジショニングもフィードもセーブを第一に考えるべきだ、ということか。

 ところで、バックパスと判定されるのは膝を含まない足からのパスだけだ。膝より上の太もも、腰、胸、ヘディングで戻したボールをGKが手で受けるのは許されている。

 だが足元のボールをフリックして浮かせ、膝、胸やヘディングでGKに戻すのは「審判の目をあざむく反スポーツマン的行為」とされて反則をとられる(「フットボール・バイブル」より)。そこから透けて見えるのは、守備目的のGKへのバックパスをよしとしないサッカー観ではないか。

 英国紙ザ・ガーディアンは「バックパスの思い出」と題する記事(2014年1月28日付)で、バックパス・ルールが導入される以前に、サッカー界はバックパスをどう見ていたかを紹介している。

 たとえば1988年欧州カップ準々決勝でFCディナモ・キエフと対戦したレンジャースFCの「恥知らずなバックパス」の記憶が取り上げられている。アウェイで0-1で負けたレンジャースは、ホームで奮起して2-0とリードした。アウェイゴールを狙って果敢に攻めてくるディナモ・キエフに防戦一方となったとき、プレーイング・マネージャー(選手兼監督)のグレアム・スーネスは決然としてチームに指示を出した。「バックパスで時間を稼げ」と。

 ホームのレンジャース・サポたちは、GKクリス・ウッズがバックパスを受けるたびに「まるでゴールしたかのように」(コメンテーターの言葉)喝采を送ったそうだ。残り30秒となったとき、味方からのパスを受けたスーネスは顔を上げ、注意深くロングボールを蹴った。

 ただし味方陣内に向けて。「ボールが送られたその先にいたのは、クリス・ウッズだった。まったくもって恥知らずきわまりない」とザ・ガーディアンの記事は締めくくっている。バックパス・ルールが導入される以前も、バックパスは「恥知らず」と見なされていた。

ノイアーは次世代スイーパーキーパーの代表

 GKが手で処理するかどうかにかかわらず、リードしているチームがただ時間を費やすためにバックパスすることは、恥知らずとまでは言わなくても、観客を楽しませるプレーとは言えないだろう。一方で、ワールドカップや欧州選手権を見る限り、躍動感のある攻撃につながるようバックパスを使う戦術を取り入れているチームは多い。ただし、足元の技術が確かで、戦術眼(クライフの言うヴィジョン)を持ったGKの存在がポイントになる。

 2014年ブラジルワールドカップはGKの大会と言われた。優勝したドイツ代表のGKマヌエル・ノイアーは、7試合を通して4失点しか許さず、86.4%という驚異のセーブ率を誇った。

 それだけでない。高い位置にディフェンスラインを設定するドイツ代表のDFの背後をついてきた相手FWが、ペナルティエリアから飛び出したノイアーのタックルを受けてボールをクリアされるシーンに敵味方を問わず観客からはどよめきが起こった。またスーパーセーブ直後に、ノイアーはスローやキックで攻撃を仕掛け、味方のカウンターを演出した。そしてノイアーへのバックパスは、攻撃の始まりであることが明らかであった。

 クライフが求めた「グローブをつけたフィールドプレーヤー」というGKの理想像を、ノイアーが体現した、と言えるのではないか。少なくともノイアーは次世代スイーパーキーパーの代表者であることは間違いない。

 バックパス・ルール制定から14年がたった今年、Jリーグ各チームはバックパスをチーム戦術として有効に組み入れているだろうか? 近い将来、日本でも次世代GKが活躍する試合をぜひ観てみたいものだ。

(文:実川元子)