「ジュビロで活躍できなかったのは自分のせい」

 前後編にわたってお送りした山本脩斗(鹿島アントラーズ)のインタビュー。予期せぬ困難に直面したとき、何がその先を分かつのか。プロとして身を立てるために、何を受け入れ、あるいは捨て去り、自らのスタイルに変化を加えていくのか。その言葉は多くの示唆に富んでいた。(取材・文:海江田哲朗)

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 盛夏の日、鹿島アントラーズの練習場。小雨がパラパラ降ったり、止んだりのはっきりしない一日だった。眼前には風力発電の巨大な風車がそびえる。

 クラブハウスから出てきた選手たちが集合し、軽いフィジカルトレーニングを行ったあと、ピッチに散っていった。山本脩斗はいかにも経験のある選手らしい、落ち着いた佇まいだ。右足、左足、ボールタッチの感覚を確かめるように蹴り、走る。時折、日焼けした顔から白いものがこぼれた。

 選手のインタビューは、練習後に身体のケアや食事などがあり、しばらく待機となるのが通例だが、山本は手早く身なりを整えて部屋に現れた。決められた仕事は先延ばしにせず、早めに着手したいタイプとのことである。

 山本は快活な口調で語った。これまでの道のりを、サッカーとの関わり方を。体調の異変といったシリアスなテーマでは、笑顔を交えておどけてみせた。

 印象に残るのは、言い訳をよしとしない断固たる姿勢である。

 ジュビロ磐田との仮契約の直前に判明した、ページェット・シュレッター症候群(原発性左鎖骨下静脈血栓症)について問うと、山本はこう言った。

「プレーには影響はしてないです。ジュビロに入り、活躍できなかったのは自分のせい。要所要所でチャンスをもらいながら、継続して高いパフォーマンスを発揮できなかった」

 やや食い気味の返答である。即戦力として活躍できなかったのはあくまで実力の問題であり、他を介在させることを潔しとしない。

 もうひとつ、山本の言葉は端々に向日性を感じさせた。過去、出会った指導者について、山本は次のように話す。

「僕はとても恵まれたと思います。小5のときに入った、上田サッカースポーツ少年団は楽しんでプレーすることができ、サッカーをより好きになれた。以降、現在に至るまで指導者の方々がさまざまな要素を分け与えてくれたおかげで、成長できたと感じます」

 きれいごとのように聞こえるが、それが山本の心情だと伝わってきた。

選手の将来像を見定める難しさ

 私は、今夏のリオデジャネイロ五輪、U‐23日本代表の10番を背負った中島翔哉(FC東京)の言葉を思い出す。東京ヴェルディのアカデミーで育ち、トップに昇格した中島は、指導者の理解を得られず、うまくかみ合わない時期があった。

 指導者との関係を振り返った中島は、一切恨みがましいことを言わなかった。「納得できること、できないこと、あらゆる出来事が自分の成長につながった。僕はすべての指導者に感謝しています。出会えてよかった」。常に前だけしか見ていない中島らしいと思ったものだ。結局、甘美や苦渋をどう消化するかは、その人次第ということか。

 山本のインタビューを終えたあと、鹿島アントラーズの椎本邦一スカウト担当部長と話す機会があった。

「盛岡商で10番を背負っていた頃から知っていますけど、まさかプロではサイドバックとして生き、鹿島でレギュラーを獲得しようとは。当時の姿からはまったく想像できないです」

 長年、数多くの選手の成長過程を観察してきた目利きのスカウトマンをもってして、山本の将来像はイメージの埒外にあった。その選手が、いつ、どんな形で花を咲かせるかを推し量るのは、かくも難しさが付きまとう。特に若年層の選手を見定める際は、予断は禁物ということなのだろう。

 2016シーズン、J1の2ndステージ、鹿島は中位に甘んじる。序盤の出遅れと真面目一徹の石井正忠監督が立場を危うくしたのが響いた。

 だが、来たる11月下旬のJリーグチャンピオンシップには、きっちり照準を合わせてくる。なぜなら、それが鹿島だからだ。常勝軍団の左翼を支える山本は、初の日本一のタイトルを携え、来季大台の10年目のシーズンに向かうつもりに違いない。

(取材・文:海江田哲朗)