夏休みに入る頃から、地下鉄の車内では一心不乱に受験対策書を読みふける若者たちが目立ち始める。大学3年生である。業界研究の本や問題集でリュックがはち切れんばかりだ。彼の真向かいには黒スーツを着て、化粧直しをしている女子学生が二人。企業のインターンシップに向かうらしい。

「センター入試みたいなものですよ」。知人の就活生が吐き捨てるように言う。大半の企業が課す、知能テストと中学レベルの数学を掛け合わせたような試験のことだ。ウェブ上で受験するケースも多いので、学生間でなかなかにエグイ共同戦線も張られているという。

文系学生は、大学に入学するとまずは高校時代の補習や教養ゼミなどで1年が過ぎる。2年次になると大半の学生はアルバイト、3年次になると愈々(いよいよ)本格的な専門科目の勉強、ではない。春休みあたりから、企業研究を開始しなければならない。夏にはインターンシップが実施されるからだ。大教室ではエントリーシートの書き方講座も開講される。それゆえ、妙に流通業界に詳しい哲学科の学生がいたりする。

4年次になると、夏休み直前まで多くのゼミは開店休業状態に陥る。キャンパスに4年生の姿はない。カラスのような黒服を身にまとった彼らがビジネス街に大移動したからだ。

人気企業の門は相変わらず狭い。緊張でこわばった就活生を面接する企業側には、時々信じがたい「上から目線」の者もいる。ある中堅メディア企業では、ザンバラ髪の尊大な中年男が「ふーん、大学で勉強なんかしてんだ」と頬づえをつき、別の事業会社では女性管理職が「TOEIC850ねえ、英語ができるって言いたいの?」と大あくびをしたと聞く。

就活生の範となるべき社会人として失格だ。学生も顧客であることを忘れている。さすがに超一流といわれる企業は揃って学生に対するリスペクトをもっているそうだ。だから、落とされても学生たちは恨まない。

毎年繰り返されるこんな年中行事にも実はよいことがある。学生たちが真剣に「受験勉強」をすることだ。就活の後半1年間は特に猛烈にやっている。まさにセンター受験の再来だが、社会に出てからは短期集中勝負を強いられることが多い。「課題解決能力」なるものも知識がないことには始まらない。それに某元政治家のお行儀やBREXITのぶざまさを見せつけられている学生たちは、そもそも大人たちが唱える課題解決能力自体に懐疑的かもしれない。

就職とは人が人を選び選ばれる作業である。大学入試とも共通する部分がある。面接によって「人物」を見極めようとする点で入試と違うように思われるが、最近の大学入試は推薦、AOから一発芸までかなり「人物」評価の比重が大きくなっている。
 
入試でも採用でも、人物評価が重要だといわれる。その通りである。だが、短期間に判断しなければならないとき、点数という定量基準と面接という定性基準のどちらに比重を置くべきなのか。大学教員時代にずいぶんといろいろな面接入試に従事したが、試験点数に勝る評価基準はなかった。

あえて極論を言う。入社試験では面接よりも試験点数を重視すべきである。ある程度以上の点数を取った就活生のなかから「人物」を選べばよい。企業も、「大学時代に遊んでいても関係ないよ」などと建前を言うべきではない。遊び呆けていた学生から凄い経営者が生まれていることは事実だ。が、稀である。だから目立つ。しかも彼らは社会人になってから人知れず猛然と勉強してきた。

ポイントは試験問題の中身である。即戦力を試すようなものは無用だ。学部や専門別に分けて出題し、大学時代にしっかり勉強したか、十分な知的インフラを備えているか、を見るべきだと思う。例えば、文学部で金融機関志望の学生には、為替や金融政策について問うのではなく「御伽草子に潜伏しているシュールレアリズム的感性を論ぜよ」のような問題がよい。

問題づくりは大変だが、「人財」を確保するコストとして、現状とどちらが高いかわからない。採用担当部署の知的ブラッシュアップにも格好である。

ただし。

折に触れて北京貢院の廃虚を見ることをお勧めする。科挙の試験場である。かつて天下の秀才たちがここで会試に臨んだ。何千倍もの競争に勝ち残った彼らは嘯(うそぶ)いた。「万般皆下品、惟有読書高」。これが近世中国の発展を決定的に遅らせたのである。

川村 雄介