あるバーベキューパーティーでのこと。「ちょっと指を貸してもらえます?」。ハーバード大学医学部客員教授の根来秀行は私(筆者)の人差し指をとると、指紋を採るように、スマートフォンのカメラ部分に当てた。フラッシュが指先を照らして約1分。スマホの画面に出てきたのは、自律神経の測定値だという。

「平均値の半分以下ですね」。根来が言うと、スマホを覗き込んでいた人々が「おおー」とどよめく。しかし、私が驚いたのは数値ではない。数日前、夜間の救急外来で医師から同じことを指摘されていたのだ。つまり、お手軽なアプリが医者と同じことをアドバイスしたのである。

根来秀行はハーバードの研究者として急性腎不全を引き起こすタンパク質を発見したことや、2012年に事業構想大学院大学を創立したことで知られる医師である。彼が開発したのは、世界初の自律神経計測アプリ。他にも、睡眠測定アプリなど、人間の生活習慣をアプリで「見える化」する。では、なぜアプリなのか。ここに深い意味がある。

「きっかけは、東大病院で長年外来と入院を担当したことでした」と、根来は言う。1990年代より彼は東大病院で、高血圧、腎臓病、糖尿病の合併症から末期がんまで、症状がひどい患者を多く診てきた。

「なんとか退院できるまで快復された方もいますが、力及ばず、亡くなられる方々もいらっしゃいました」と言う彼はある取り組みを思いつく。そもそも病気の原因は何か。患者の生活から見いだそうと、丁寧に話を聞くことにした。大学病院の「3分診療」ではじっくり聞けないので、カルテを書く時間を圧縮するなど工夫。すると、患者たちの話から共通項が浮上した。

「睡眠が悪い人が多いのです。退職した人たちは通勤という規則正しい生活がなくなったことで、遅くまで起きたり、だらだらと寝たり、睡眠時間が不規則になっています。睡眠の乱れにともない、食生活が乱れて、運動もしなくなります。血圧が上がり、血糖値が悪くなることもあり、病気が悪化していくのです」

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もともと根来は、睡眠ホルモンと呼ばれる睡眠誘発物質「プロスタグランジンD2」の研究で博士号を取得している。「この物質は動脈硬化をやわらげる作用と関係があると見ていて、悪い睡眠と高血圧や心筋梗塞との直接的な関係があるのでは?と思っていたのです」

一方で、根来は東大の保健センターの講師として運営管理を任され、職員と学生の健康管理を担当。こうして健康な者から末期症状の者まで幅広く生活スタイルを調査した。彼の睡眠への情熱は、当時の間違った一般常識も影響している。レム睡眠とノンレム睡眠のワンサイクルが90分であり、90分の倍数の時間を寝れば熟睡できるとか、ゴールデンタイムに就寝すれば、4時間の睡眠で大丈夫とか、世間では間違った睡眠神話がもっともらしく語られていたのだ。

脈拍の「ゆらぎ」に着目

根来にとって大きなチャンスとなったのが、ハーバード大医学部の睡眠医学の権威、チャールズ・サイズラー教授との出会いだ。98年、体内時計が24時間11分であることを発見した人物で、根来はサイズラー教授に出会うと、その後、睡眠医学教室客員教授としても招聘され、共同研究を行うことになったのである。

さて、睡眠や自律神経と健康の因果関係が見えてきたものの、最大の課題は「生活習慣を変えることができるか」だ。

入院中の糖尿病患者は食事制限に耐えられず、驚く行動を取ることがある。病院の庭に落ちているドングリすら口にしてしまうのだ。病気になってから生活習慣を変えることは至難の業で、根来はこう言う。

「入院中の糖尿病の患者さんに対して、スタッフが冷蔵庫を抜き打ち検査をするなど、生活習慣を変えるようにしています。血糖値が正常になれば退院しますが、退院後に元の生活に戻ってしまい、再入院が必要な事態になるのです」

退院後の生活を監視するわけにはいかないし、根来は「そもそも病気にならないようにしたり、あるいは人生のなかで病気になる時間をできるだけ遅らせるしかない」と言う。そこで当時、彼が着目したのがソニーのロケーションフリーという商品だった。遠隔操作をする機器で、家のテレビで録画した番組を外で見たりできる。つまり、「生活習慣の中にICTが入り込めるのでは」というアイデアが湧いてきたのだ。

タイミングよく登場したのが、スマートフォンである。しかも、スマホの機能は、人間の生体データを計測するのに適していた。

まず、冒頭で紹介したように、カメラのレンズ部分に指先を当てると、指先の毛細血管の血流を分析することができる。また、「ジャイロセンサーが装備されていて、画面の縦横を修正する回転角速度を測定できます。これは”体動”を感知できるので、万歩計の役割にもなるし、睡眠中の寝返りも感知できます」。

根来は脈拍の「ゆらぎ」と呼ばれるものに着目した。心電図の波のように、心拍は一定のリズムで動いているように見える。しかし、実際は心拍の波間が長くなったり、短くなったりしている。このブレを「ゆらぎ」と言い、ゆらぎは自律神経と関係がある。副交感神経の動きが活発だとゆらぎが大きくなり、交感神経が活発であればゆらぎが小さくなる。ゆらぎは、体が自らを整えるために行っているもので、糖尿病などの患者はゆらぎがなくなっている。

ゆらぎを感知することで、自律神経のバランスを測定し、「疲労度」や活力である「元気度」を数値化する。スマホならば24時間測定できて、データを蓄積できる。

また、根来が開発したアプリ「sleepdays」を枕元に置き、眠りの浅さや入眠までの時間、深い睡眠の状態を計測する。こうした測定の結果、アプリが体内時計を把握し、一日をどのように過ごしたらいいか、休憩の入れ方や深呼吸の時間、入浴や睡眠のタイミングなど体内時計を充実させるためのアドバイスを行う。

人間は痛みを感じて、初めて病気だと気づく。見えないところで進行する病気の芽を早めにアプリが教えるというわけだ。根来が研究テーマとする「先制医療」である。

しかし、ジレンマとの闘いでもある。

「ここ数年、夜中まで携帯やパソコンを見て、生活のリズムを崩している患者さんが現れるようになりました。そうした患者さんにアプリで意識変革を促す。携帯は両刃の剣でもあるのです」

自分の睡眠を視覚化する

「不眠症になって初めて外来に行きますが、早期に体内時計のずれを是正する目的でつくったのがこのアプリです」

「Sleepdays」は、根来氏がハーバード大学での研究にてサーカディアンスリープTMメソッド(睡眠学と時間医学を融合させたメソッド)を開発し、それを応用したアプリだ。枕元にスマホを置いておくだけで、睡眠の状態を測定する。寝返りや眠りの浅さと深さ、入眠までの時間などがわかる。体内の状態がデータとして蓄積されるため、利用者にとって、いつ頃に深呼吸(リラックス)したらよいか、何時に入浴したら眠りが深くなるか、あるいは何時に寝たら体内時計が整うかなどを教えてくれる。

また、無呼吸症候群など潜在的な問題を気づかせてくれることもあり、利用した患者たちは「自分で意識していなかったことがわかり、衝撃だった」と好評だという。生活習慣への意識を高めることが目的であり、知らない自分を知ることが病気を防ぐことになるはずだ。

根来秀行◎ハーバード大学医学部、パリ大学医学部、杏林大学医学部で客員教授。徳真会グループ「クオーツメディカルクリニック」で診察するほか、著書に『身体革命』など

Forbes JAPAN 編集部