東西冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊したのは1989年のこと。最初にこの街に来たのは貧乏アーティストたちだった。その次に来たのが最盛期に100万人を動員した野外レイヴ「ラブパレード」でプレイするDJたちだった。
 
そして、今この街に集まるのは世界中の起業家たちだ。
 
ベルリン中部のミッテ地区、1万6000平方メートルの床面積をもつ、石造りの建物に2014年、グーグルの主導でスタートアップ製造工場「ファクトリー」が生まれた。ベルリンの壁の跡のすぐそばに建つこのビルの窓から、1960年代には旧東ドイツ警察が、自由を求め西側に逃亡する市民を射殺する現場が見えた。
 
数十年が経過した今、ファクトリーは「欧州のシリコンバレー」の異名をとるベルリンのスタートアップの象徴となった。ウーバーやツイッター、音楽配信サイト「サウンドクラウド」などの大手が拠点を構え、コワーキングスペースに集う起業家は約800人。シリコンバレーのIT企業にならい”キャンパス”と呼ばれるオフィスの壁面にはギターが飾られ、ミレニアル世代の若者たちがMacBookのキーボードを叩く。 

ファクトリーでCRO(チーフ・リレーションシップ・オフィサー)を務めるニクラス・ロールヴァッハーは旧東ドイツのライプチヒで88年に生まれた。

「壁が崩壊した時の話を両親から聞かされて育った。全てが監視下に置かれる自由の無い世界が、ある日突然西側に開かれ、とてつもない変化が始まった。情報と人がカオスのように押し寄せる渦の中で自分は育ってきた」 

ベルリンに拠点を置くスタートアップ企業は現在約2500社。08年と比較するとデジタル系企業の雇用は70%増加した。一昨年ベルリンのスタートアップが調達した資金は24億ユーロ(約2900億円)に及び、ロンドンやストックホルム、パリの3都市の合計を上回った。ベルリンにはこの街ならではの「世界を変えていくパワー」があるという声は高い。

起業家のための会員制クラブ

自身も2つのスタートアップ企業の経営を経てファクトリーの運営チームに加わったニクラスは地元の高校を卒業後、ベルリンの演劇学校エルンスト・ブッシュに進み、舞台俳優としても活躍した。

「卒業間際に友達とふつうの会社員にはなりたくないと話していた。会社を立ち上げることを決め、お互いのアイデアを出し合った。ネットワークイベントにも顔を出し、投資家たちともミーティングを重ねた。そうやって生まれたのがメンターという目標管理アプリだった」 

2番目の会社を立ち上げた頃にファクトリーの運営者から誘いを受けた。

「自分の役割はファクトリーの外務大臣。いろんなカンファレンスに顔を出し、自分たちが何をやっているのかを説明する。起業家と外部企業をつなぐ役割もある」 

ファクトリーの機能を一言で言うと”起業家のための会員制クラブ”ということになる。入会審査を通過し、毎月約55ドルの会費を払えばコワーキングスペースやミーティングルーム、イベント等へのアクセスが可能になる。業界の大物を招いたカンファレンスも定期的に開催され、ウーバーのトラビス・カラニックCEOや、グーグルX創業者のセバスチャン・スランといったシリコンバレーの著名人の講演も聴ける。16年9月にはYコンビネータを招いた資金調達セミナーも開催した。

「ファクトリーには起業家だけでなくドイツ銀行や武田薬品といった大手企業も法人会員として参加している。企業側は先進的なスタートアップのアイデアに触れられるし、人材スカウトの場としても活用できる。ドイツ銀行はここでフィンテック関連のアイデアを募集した。フォルクスワーゲンやウーバー、ルフトハンザ航空を招き、モビリティをテーマにしたハッカソンを開いたりもしている」

16年6月のブレグジット決定以降はロンドンからやってくる起業家も増えた。

「スカンジナビア諸国やオーストラリア、アメリカからベルリンを目指してやってくるエンジニアもいる。メンバーはコーヒーマシンの前で雑談したり、Slackの会員限定チャンネルで交流してアイデアを出し合う。ここなら自分の事業が失敗しても、他の仲間とジョイントベンチャーを立ち上げて、人とのつながりの中で新しいものを生み出していけるんだ」

アートとテクノロジーが交差する街

ファクトリーという名はアメリカのポップアートの巨匠、アンディ・ウォーホルのスタジオの名に因んで付けられた。

「ベルリンはアートとテクノロジーの交差点だ」とニクラスが言うとおり、ベルリンには”欧州版インスタグラム”と呼ばれる写真共有アプリのEyeEmなど、アートに根ざしたスタートアップが多い。 

他の欧州諸国と比べれば大幅に安い家賃、安くて美味しいレストラン。ヨーロッパを代表するクラブ「ベルグハイン」を筆頭に充実したナイトライフがある。クリエイティビティあふれる自由な空気が人々を魅了し、ベルリンに呼び寄せる。

「アートこそがこの街のイノベーションの源泉だ」と語るのは情報サイト「Berlin Loves You」を運営するフィリップ・エガースグリュスだ。ハイデルベルクの大学で法律を学んだ彼がベルリンにやってきたのは07年のこと。

「ロースクールを卒業して、両親は弁護士になれって言ったけど、世の中に弁護士は多すぎると思って起業家を目指した。古臭いハイデルベルクとは違ってベルリンは刺激に満ちていた。街のアートギャラリーのイベントに顔を出した時、スカンジナビアから来たDJたちと知り合ってSongBeatというMP3収集ソフトのアイデアが生まれた。結局レコード会社から訴えられて他の企業に売却することになったけれど」 

当時のベルリンでは後に評価額84億ドル(14年当時)に急成長を遂げるロケットインターネットが創業されたばかり。サウンドクラウドもその頃の創業だが、まだスタートアップ企業は少なかった。

「ドイツ全体に関して言うと、フランクフルトは金融の中心。ミュンヘンやシュツットガルトは自動車産業で栄えている。けれど、イノベーションの点ではアメリカに10年も遅れている。大企業がほとんどないベルリンがテクノロジー分野でリードしていく」

エガースグリュスによるとベルリンは”欧州のスタートアップの実験場”的役割を果たしているという。

「他の国から見るとクレイジーとしか思えないスタートアップもある。売春婦を斡旋するアプリの『Holala』とか。フランスの出会い系アプリ『happen』も本国の次にベルリンに進出した。ベルリンは人種のるつぼだから、ここで成功できれば世界のどこに行っても戦えるんだ」 

ドイツ財務省は16年7月、スタートアップ支援に向け100億ユーロを投じる用意があると記者団の前で述べた。 

著名投資家のピーター・ティールも資金を注ぐ、8分で口座開設が可能なスマホ銀行の「N26」や、ビル・ゲイツが支援する科学者向けSNSの「ResearchGate」。電気を使用しない冷蔵庫の「Coolar」等、近年は金融やサイエンス分野のイノベーションも盛んだ。 

ベルリンの壁崩壊から28年が経とうとしている。人口350万人の石畳の都市が今、ドイツの未来を切り拓く。

Yuji Ueda