心は常にゲーマーでした。

任天堂の顔として大活躍された元代表取締役社長で、2015年7月に他界された岩田聡さん。世界中の任天堂ファンだけでなく、ゲーム業界も同様に大きな損失と悲しみに包まれたのは記憶に新しいところです。

今回は、その岩田さんのキャリアを振り返るトリビュート動画を見て、彼の超人的な活躍をを再確認してみましょう。



こちらはpolygonが取り上げたDidYouKnowGaming?の動画でした。


名刺には代表取締役社長と書かれても、頭はゲーム開発者で、心はゲーマーだと公言していた岩田さん。札幌で政治家だった父親の家庭に育つものの、中学生でコンピューターとその技術に興味を持ち、高校時代にHPのプログラム電卓を購入。独学で自作ゲームを作っていました。



自作ゲームで友達が喜んで遊ぶ姿に楽しさを見出し、1978年には当時本人が最も学びたかったコンピューター科学に近いことを教えてくれる、東京工業大学工学部情報工学科に入学。

ですが高校時代にプログラミングを学んだため授業は簡単過ぎ、代わりにデパートのPCコーナーに通うようになり、そこでできた新たな友人たちと後にHAL研究所を設立することとなりました。

HALは「2001年宇宙の旅」に登場する人工知能HAL 9000が由来であると共に、IBMの一つずつ先のアルファベットでもあったことから名付けられました。ですが室蘭の知事だった父弘志さんは、無名の会社に入った息子に腹を立て半年も口を利かなかったのだとか。後に岩田さんは振り返り、「両親は私がカルト宗教にでも入信したのかと思ったに違いない」と言いました。



プログラミングが大好きだった彼は休日返上で仕事をこなし、ゲーム・デザイナーや海外市場担当など、状況に応じていくつもの役職を兼任。任天堂よりファミリーコンピュータが発売されると、ハル研もこれに注目。ファミコンの中身が、かつて親しんだコモドールPETの互換プロセッサだったこともあり、京都に渡り任天堂に自身の技術を売り込んだおかげで、ハル研は任天堂とパートナーシップを結ぶようになりました。

当時は開発が遅れていた「ピンボール」のお手伝いを任されるも、これをすぐ完遂。その後も「バルーンファイト」など数々のゲームを共同開発するようになります。

ハル研独自で全く新しいゲームの開発を任された時、当時22歳だった社員、桜井政博さんのアイディアを基に監督を任せ「星のカービィ」が完成。全世界で500万本が売れる大ヒットになりました。



「星のカービィ」は大成功でしたが、ハル研はゲームソフトの売上げ不振と不動産投資の失敗によって倒産に追い込まれます。そこで当時の任天堂の山内溥社長は、ハル研が任天堂のセカンド・パーティー開発社となることと、岩田さんが任天堂の次期社長になることを条件に資金を援助。そして倒産は無事に回避。

他にも開発が暗礁に乗り上げつつ合った「マザー2」や「ポケモンスタジアム」などは、岩田さん自らがプログラミングをし期間を劇的に短縮させ、過去のキャラを起用した「スマブラ」も大成功に導くなど現場でも奇跡を起こしまくりました。

ニンテンドーDSはゲーマーではない一般層にも売れ、山内前社長から「革命的なゲーム機を作れ」との命によりファミリー層にも的を広げたWiiを完成させます。モーション・コントロールによるゲーミングは後世のゲーム機に多大な影響を与えますが……Wii Uでは大コケ。



プレゼンテーションやCMにも姿を表し、任天堂のウェブサイトで連載された「社長が訊く」シリーズも展開するなど名実ともに任天堂のアイコンとなった岩田さんですが、2014年に胆管腫瘍が発見されてしまいます。手術が成功し復帰した後、「ポケモンGO」に繋がるアイディアをやり取りしたりと旺盛な仕事ぶりでしたが……翌年7月に体調を崩し容態が急変。同月11日、享年55歳にして亡くなってしまい、世界は彼への畏敬の念を示したのでした。



カリスマ性と類まれなる才能、そしてゲームへの飽くなき情熱を持ち任天堂を牽引してきた岩田聡さん。私たちはいつまでも彼を忘れることはないでしょう。



source: YouTube via polygon

(岡本玄介)