ひとつのテーマを二人の論者が違った視点からアプローチして、その本質に切り込むgooニュース×Voice連携企画「話題のテーマに賛否両論!」。今月のテーマは婚活です。

婚活・そもそも結婚自体に価値がない(藤井亮・ブロガー)

醸成された「軽い」結婚観

「婚活」という言葉は、二○○八年春に社会学者の山田昌弘氏とフリーライターの白河桃子氏によって提唱されて以来、同年秋から冬にかけて女性ファッション誌などが特集を組み、マスメディアなどがキャッチーなキーワードとして取り上げたこともあり、爆発的な広がりを見せている。少子化問題の解決策として期待する声すらある。だが、そもそも結婚をゴールに設定している時点で私には「古い」としか思えない。

結婚という選択肢をあえて選ばない、結婚することにメリットを感じない、という層が男女とも確実に増えているように思える。恋愛やライフスタイルが多様化しているにもかかわらず、「婚活」は旧来の結婚観をそのまま受け入れてしまっている。

一九七六年生まれのロストジェネレーション世代の私は、日本で初めて「個性教育」を受けてきた世代といえるだろう。一九八四年の臨時教育審議会で個性を重視の原則が掲げられ、一九八九年には「社会の変化に自ら対応できる心豊かな人間の育成」をめざした新学習指導要領が告示された。また社会に出るタイミングでバブルが崩壊、リストラの嵐が吹き荒れ、就職が超氷河期に突入している。

自由な考えが教育によって埋め込まれ、そこに「確実なことなど何もない」という社会の現実を目の当たりにしたロスジェネ以降の世代は、既存社会に対する規範へ疑いの眼差しを向けているか、もしくはすでに自分なりの価値観を築き上げている。「結婚観」もまた、その過程で溶解。もはや、結婚は特別な意味もないものになっており、「大人は結婚して一人前」といった価値観にとらわれていない人も多い。

結婚は永遠のパートナーを選ぶといった重々しいものではなく、その時々の雰囲気でするものになっている。いわゆる「できちゃった婚」は、一九八○年代から二○○○年代のあいだに倍増。離婚はすでに日常化している。

こうした結婚のカジュアル化の象徴的な例として、国民的なマンガである鳥山明作『ドラゴンボール』の主人公・孫悟空と妻のチチが結婚に至るまでの過程を挙げたい。「嫁に貰う」という約束を六年も忘れていた悟空だが、天下一武道会でチチと再会して結婚を迫られると、あっさりと「約束は約束だ」と首を縦に振ってしまうのである。悟空・チチ夫妻のケースは「きっかけはある日突然やってくる」「結婚はすべからくして結婚に至る」という「軽い」結婚観を、知らず知らずのうちに醸成した一例なのではないだろうか。

この、結婚の価値の相対的な下落が、「結婚をしない」という選択肢を増やしている。

私の場合、長年同棲しているパートナーがいるが、一向に入籍する気配はない。経済的な理由が大きいのも確かだが、お互いが一つ屋根の下で暮らしているということは、婚姻届を提出しようがしまいが変わらない。“我が家”の場合、いまのところ、結婚をあえてするだけの、理由がないのだ。
結婚しても経済的な安定など保障はされない。むしろ、相手と性格が合わないなどデメリットのほうが先に立つ。また、自分だけの人生ではなくなることによって、仕事や趣味に没頭していた人からしてみれば、リスク要因にさえなりうる。「自由な生き方」が、結婚という足枷によって実現できなくなってしまうのである。

「婚活しなければ結婚できない」と追い立てられても、結婚そのものに特別な価値を見出していない世代の心には響かない。むしろ、「いったい誰がそんなに結婚したいのか?」と不思議にすら思う。

結局のところ、「婚活」とは、古い価値観を否定しながらもそこから抜け出せなかったお一人様化したバブル世代の郷愁なのではないか。それは、キーワードの震源地となった、白河氏の『日経ビジネスオンライン』の連載「キャリモテの時代」で、当初四十代前後(アラフォー)女性が、「婚活」の対象者だったことからも明らかだ。しかし、いつの間にか、私のような三十代男性までが、あまり恋愛にガツガツしない「草食系男子」というレッテルを張られて、「婚活」の対象者に組み込まれてしまったのが間違いだった。

ここで注意をしたいのは、バブル経済を経験した現在の四十代と、平成の大不況のあおりで就職氷河期の荒波をまともに受けた三十代より下の年代とでは、結婚しない、あるいはできない状況はまったく違う、ということだ。

前者は、独身貴族を謳歌した末、気が付いたときには「負け犬」になっていた、という層で、機会喪失の責は主に個人にあるだろう(彼らには彼らの言い分があるのだろうが)。そういった世代が「婚活」に走り回る姿はいささか滑稽でさえある。簡単にいってしまうと、慌てるのが遅すぎる。

しかし、後者の場合、すでに述べたように結婚には特別な気持ちはなく、メリットを感じていない。「草食系男子」というレッテルは一方的だが、旧来の男性らしさから遠い存在であることは確かだ。「婚活」を特集したメディアでよくあるパターンは、年収を高望みする女性が多いが、現実には専業主婦を支える収入を得ることができる男性が圧倒的に少なくなっているデータが紹介され、女性へ妥協を迫るというもので、「高望みしていたら結婚もできないわよ」と親からいわれたという同世代の女性も多い。

だが、共働きどころか、所得が低下した「格差社会」のなかで疲れ果て、女性に支えてほしいと公然と主張する男性も出始めているなか、高望みも何もない。女性の主婦願望が強まっているという意見もあるようだが、将来の不安から男女共に主夫・主婦志向が強まっていると考えられないだろうか。そうであれば、男女は擦れ違うばかりだ。

結局のところ、「自由な人生」を与えられ謳歌し、時には裏切られてきた私たちに、古いままの結婚観を押し付けようとすること自体が無理な話なのだ。結婚はゴールでもスタートでもなく、あくまで通過点の一つ。うまくいかなければリセットしてもいい。もはや、人生の一大行事でもなく、「人生の墓場」でもない。

それに、終身雇用制だったころには、職場と地元、出身校くらいしか人との接点がなかったのに比べれば、転職を繰り返し、インターネットが普及し趣味の合う人との出会いが容易になり、所属するコミュニティが増えていることを考えれば、自然な「出会い」に遭遇する確率は高まっている。むしろ旧来の結婚観の「重さ」が男女の出会いを遠ざけているのではないか。

  |          次のページ→