数々の名作を生み続けるスタジオジブリ。『となりのトトロ』や『もののけ姫』、あるいは昨年公開された『崖の上のポニョ』。誰しも一度はジブリ作品を観たことがあるだろう。しかし、これらの作品はある一人の男が宮崎駿を見出さなければ、私たちの目に触れることはなかった。その男、鈴木敏夫は言う。「この人を世に出す。それが面白くなる人生だと思った」。(佐藤譲・京都大学

 
「めんどくさいなぁ」。隣の部屋から声が聞こえてきた。鈴木さんだ。廊下に「ペタッペタッ」という音が響き、近づいてくる。この取材のことを言っているのだろうか。体が強張る。
スタジオジブリのオフィスはJR中央本線の東小金井駅から歩いて10分ほどのところにある。約束の時間より少し早く着き、プロデューサー室で待っていた。映画に関する資料が本棚に並ぶ部屋。出てきたお茶は、トトロの絵が描かれたコップに入っていた。
鈴木さんは会社にいるとき、裸足に雪駄を履く。ジブリに入る前、出版社に勤めていた頃から仕事中は裸足になった。「ペタッペタッ」。足元が見えた。「はじめまして、鈴木です」。

 

■自分より優れた才能を持った人に出会った

鈴木さんは、雑誌の記者を務めた経験があり、著書を読むとクリエイティブな面を強く感じる。しかし、仕事はプロデューサーで、クリエイターを支えている。取材を申し込んだのは、アルバイト先で僕もクリエイターを支える立場にあるからだ。僕の場合は、総務としてクリエイターに接して充実感を得ながら、一方で自分を表現しきれていないという思いがある。

「なぜ、自分で何かを表現しようと思わないのですか」。鈴木さんはその疑問に簡潔に答えてくれた。

「一言で言うよ。自分より優れた才能を持っている人に出会ったから。その一点。自分より優れた才能を持った人がいて、そしてその才能を世間に出したいと思った。だって、ほっといたらその才能は埋もれちゃうわけじゃない?ぼくは、せっかくそういう才能の人がいるんだから、世に出して、世に問いたかった」

宮崎駿・高畑勲の二人と出会い、鈴木さんの人生は大きく変わった。

■女子高生にアニメを学ぶ

当時については著書『仕事道楽』に詳しい。
鈴木さんはかつて徳間書店に勤めていた。宮崎・高畑を知るのは1978年『アニメージュ』創刊のとき。当時はアニメについては全くの素人。創刊までの3週間で、最低限の知識は知っておかねばと、アニメに詳しい女子高生を家庭教師に学んだ。そこで映画『太陽の王子ホルスの大冒険』がすごいと教わる。この映画こそ宮崎・高畑が深く関わった作品だった。

創刊号で取り上げようと、高畑さんに電話して、隣りにいた宮崎さんとも話すことになる。このときの二人が強烈だった。「会いたい」と言っただけの鈴木さんに対し、高畑さんは会いたくない理由を1時間しゃべり、宮崎さんはもっと詳しく特集しろと30分迫った。時間がないため、取材はあきらめた。しかし、印象は残る。
『太陽の王子ホルスの大冒険』が気になり、観て、驚いた。子ども向けのアニメかと思っていたら、実は映画の背景にベトナム戦争があった。明確な主張と製作者の思いが詰まった映画だった。二人に会いたいと強く思った。そして、彼らは出会う。

 

■宮崎駿を世に出したら人生が面白くなる

「この人を世に出す。それが面白くなる人生だと思いました」。鈴木さんは宮崎さんとの出会いをこう語る。
その頃、宮崎さんは映画『ルパン三世 カリオストロの城』にとりかかっていた。この作品は今でこそ高い評価を受けているが、当時は一般の人々に受け入れられず、興行成績は不振に終わった。その影響から宮崎さんはしばらく映画に携われなくなる。宮崎さんはそんな不遇の時を過ごしていた。

1981年、『アニメージュ』8月号で鈴木さんは「宮崎駿特集」を組む。宮崎さんは当時、一部のマニアには知られていたものの、一般にはほとんど認知されていなかった。

翌年、2月号の『アニメージュ』で『風の谷のナウシカ』の連載がスタート。この作品は始まって一年たたずに映画化が動き出す。鈴木さんは、昼は宮崎さんと一緒にアニメーションスタジオで、夜は徳間書店という二重生活を送った。二人との関係が深まり、プロデュースに手を染め始める。

1984年には『風の谷のナウシカ』、1986年には『天空の城ラピュタ』が公開される。1988年には高畑『火垂るの墓』と宮崎『となりのトトロ』が同時公開。いずれも、実質的なプロデュース業を担当した。1989年の『魔女の宅急便』でプロデューサー業務をさらに踏み込んで担当し、この年、ジブリへ出向。翌年、徳間書店を退社し、ジブリの取締役に就任した。1991年の『おもひでぽろぽろ』で初めてプロデューサーとしてクレジットされ、以降全てのジブリ映画でプロデューサーを務めている。

鈴木さんがクリエイターを支えるのは宮崎・高畑という強烈な才能に出会ったことが原因だったが、二人を「世に出し、世に問う」ことは雑誌『アニメージュ』でも出来たのではないか。鈴木さんは、映画のプロデュース業に手を染め、雑誌を離れていく。なぜなのか。

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この記事はgooニュースと大学生向けのジャーナリスト育成プログラム「スイッチオンプロジェクト」のコラボレーションによるものです。