離党、移籍、結党、解党、合流……政党や所属議員めまぐるしい動きの末に、12の政党が総選挙に臨むことになった。衆議院の解散以降、できたと思ったら消滅した政党があり、慌ただしく作られた政党があり、主要政策や幹部の言うことに変遷や食い違いがある政党もある、と言った具合で、主張や実像が分かりにくい。文字で書かれている公約を比べるだけでなく、討論会やインタビュー、街頭演説などを含め、私たちは自分の五感をフル稼働させて、それぞれの候補者や政党を見極めなければならない。

大事なのは、「今、何を言っているか」ではなく、「選挙後に、何をどうやるか」だ。予知能力などまるでない、私のような凡庸な人間が、選挙の後の数年間を予測するのは無理だ。けれども、がんばらなければいけない。なぜなら、日本は今後ますます深刻な状況に陥っていくことが予想されるうえ、最近の選挙を振り返ると、「今」話題になっている課題や、 人々の「今」の気分が結果を決めてしまい、後になって「これでよかったのだろうか」と悔やむ言葉を聞くことが多いから。

2005年の「郵政選挙」は、小泉首相(当時)が最も力を入れていた郵政民営化を争点にするシングル・イシュー選挙になった。民営化に反対する者は「抵抗勢力」のレッテルが貼られ、選挙区に「刺客」が送り込まれた。小泉人気もあって報道はにぎやかだったが、「郵政」以外の論点をじっくり考える機会があまりなかった。小泉改革路線の「痛み」について、投票の時点で十分な議論がされただろうか。政治の課題は多岐にわたっている。メディアなどで話題になっている課題だけで判断することには、慎重でありたい。

原発や景気対策など、自分が大事だと思う課題1点で投票先を決めても、もちろんいい。ただその場合でも、それ以外の問題についても、その候補者や政党がどういう政策を持って、選挙後に何をどのように行うかは、確認しておきたい。後から、「こんなはずじゃなかった」と言わないために……。

最悪の事態避けるための選択も

2009年の「政権交代選挙」の時には、自民党政権に辟易した人々の空気が政権交代の熱を帯びて盛り上がった。「政治主導で予算の組み替えをすれば、増税しなくても大丈夫」というマニフェストは大いに魅力的だったが、その結果がどうだったか、3年後の今、私たちは目の当たりにしている。「打ち出の小槌」や「魔法の杖」などはなかったのだ。今回の選挙でも、各政党とも明るい見通しや”いい話”をたっぷり語っている。それが「打ち出の小槌」や「魔法の杖」頼みではないか、よくよく見定めたい。

今の日本が抱えている困難な課題は、様々な 要因や問題が組み合わさった複雑なものだ。だから、解決が難しい。なのに、それを単純化したり一つの視点だけで評価したりして、「こうすればいい」とシンプルな解決法を提示してみせる物言いを見聞きすると、私は「ちょっと待って」と言いたくなる。

たとえば円高は日本の経済にダメージを与え、産業の空洞化を招いている、と言われている。確かに自動車や電機などの製造業にとっては大問題だ。ただ、今のように原発のほとんどを停止し、エネルギーの大半を化石燃料の輸入に頼っている中では、悪いことばかりではない。円安に動けば、輸出産業は一息つけるかもしれないが、燃料が高騰すれば電気料金がさらに値上げとなるだろう。それは産業界にも家計にも負担になる。食料自給率が4割を切っている日本では、円安は食品の値上げにつながる。それに円高さえ解消すれば、産業の空洞化が防げるというわけでもない。この問題については、円高、円安、双方にメリット・デメリットがあることを念頭に置きつつ、対応策やその効果を評価していきたい。

経済の問題を語るにも、財政や社会保障の問題を考えるにも、今、もっとも重視して考えなければならないのが少子高齢化の問題だ。特に、生産しつつ旺盛に消費もする年齢層が急速に縮んでいる今の状況 は深刻だ。ただでさえ消費が減っているうえに、若い人たちの所得は低い。しかも、企業は生産性を高めて厳しい時代を生き抜こうとリストラを敢行。家計はますます逼迫し、消費はさらに低迷していく。これでは内需は減る一方だ。一方、増加する高齢者は、病気や障害に備えて資産をため込むばかりで、あまり消費せず、内需の拡大には寄与しない。

今の悪循環を劇的に変え、景気をよくし、財政赤字を改善し、年金や医療の水準を維持しようとするための特効薬などない。女性の力を活用し、社会のニーズにあった新しい産業を育て、外国人観光客を呼び込み、効率的な町作りを行い……。そんな様々な対策を考え、組み合わせていくしかない。若者たちが結婚して子どもを産み育てられるだけの収入が得られるようにする仕掛けも必要だ。貧困対策や子育て支援は、社会福祉の分野として語られることが多かったが、これからは大事な経済対策でもある。いずれも即効性はなく、時間も手間もかかることばかりだ。長期的な展望をもって、取り組まなければならない。そういう認識で、できるだけ具体的で効果的なメニューが豊富なのはどこの政党だろうか。おいしい話だけでなく、国民の負担についても正直に語っているのは、どの候補者だろうか……。

今回は、「脱原発」を訴える政党が多い。エ ネルギー政策も、問題は単純ではない。確かに、ひとたび事故が起きた時の被害は途方もなく大きい。原発のない社会を作りたいというのは、国民の多くの切実 な願いだ。その一方で、貧困によって命を脅かされている人々もいる。経済のことを考えれば、「脱原発」は現実的でない、という考えもある。「命か金か」といった二者択一のシンプルな発想では、議論は具体的にならない。今後も原発を利用していくなら、東電福島第1原発の事故が示した原発のリスクをよくよく考え、「脱原発」を目指すのであれば、それがもたらすリスクとも向き合いたい。エネルギーを確保するのに、なんのリスクも伴わない方法はないのだ。

こうして経済やエネルギーのことを考えてみても、今の日本が抱える困難な課題は困難で、どの政党が政権をとっても、即効性のある対策は期待できない。難しいことではあるけれど、10年後、20年後を見据えながら、「今」、日本はどういう道を進むべきかを考えたい。

とはいえ、すべての論点にわたって、自分の考えに一致する政党や候補者は、なかなかいるものではない。自分の選挙区に最善(best)の候補者がいなければ、「まし(better)」な人を探すしかない。でも、そのbetterもいなければどうする? 棄権? それとも白票を投じる?

そういう時には、最悪の事態を避けるための選択、というのも必要だと思う。今、放っておけば起きるかもしれない最悪の事態を避けるためには、「よくない」と思える候補者の中から、「より害悪が小さい(less worse)」人を選択するというのも大事なことだと思う。

政治とは、最悪を回避したうえで、よりよい状態に近づけていくための営みなのだから。

その裁判官は「○」でいいか

ところで、この総選挙の日、私たちは政党や政治家を選ぶだけでなく、もう一つの選択をしなければならない

最高裁裁判官の国民審査だ。今回は10人の裁判官についての審査を行う。過半数が×をつけた裁判官は、罷免されることになっている。国民審査は、国民が司法に対して直接意思表示をできる、唯一の公的な制度と言っていい。

ところが、これがまことに分かりにくい。

小選挙区と比例区の投票を済ませ、国民審査の用紙を渡されて戸惑った経験のある人もいるのではないか。知らない人の名前がずらりと並んでいて、「これを判断しろと言われても困るな〜」と思い、何も記さないまま投票箱に用紙を放り込んだ人は、さらに多いのではないか。

中には、用紙を渡された時に「分からないんですけど……」と言うと、「だったら、そのまま箱の中に入れておいてください」と指示された、というとんでもない話も聞いた。

国民審査はやめさせたい裁判官に×をつける方式なので、何も書かずに投票してしまえば、事実上は信任したのと同じことになってしまう。そのお陰か、戦後に始まったこの制度で罷免された裁判官は、ただの一人もいない。形骸化しきった制度になっている。

裁判官をどう評価したらいいか分からないのは、有権者である国民の責任ではない。責任はもっぱら、分かるように説明する責任を果たさない裁判官や裁判所にある。

仮に、○印をつけた者は信任し、それが過半数に達しなければ失職する、という制度だったら、裁判官達は自分の業績を分かってもらおうと、国民に分かりやすい言葉で説明をするに違いない。今は、有権者の多くが無知である方が審査される側にとって都合のいい制度の上にあぐらをかいているとしか思えない。

投票日の前に、選挙公報と同じように審査公報が届けられてはいる。そこには略歴や「裁判官としての心構え」などと合わせて、「最高裁判所において関与した主要な裁判」が列挙されている。けれども、 これを読んで理解できるのは法律の専門家ぐらいのものだろう。不親切このうえない。

このような形骸化した制度を改めさせるためには、今の制度の中で意思表示をするしかない。私は「分からなかったら、全員に×をつける」ことを提唱したい。それぞれの裁判官がきちんと分かりやすく説明をしないために、「よく分からない」状態で審査に臨まされていることについての異議申し立てとして私たちができるのは、それしかないからだ。

しかも、今の裁判所は国民の人権を守る砦としての役割を果たしているのか、疑問に思うことがしばしばある。冤罪事件では、警察や検察の捜査のあり方が問題にされる。特に、被疑者が虚偽の自白をせざるをえなくなるような取り調べについては、最近、批判を浴びることが多い。取り調べの経過を録音や録画で記録する「可視化」の必要性が叫ばれ、現在、法制 審議会で制度化にむけての議論が行われている。

ただ、警察や検察が自白調書の作成にこだわる理由の一つは、裁判所の姿勢にある。ひとたび自白調書ができれば、弁護側が任意性や信用性を争っても、多くの場合、裁判所は証拠として採用し、有罪判決の根拠にする。捜査経済上、自白は効率がいいから、無理にでも自白をとろうとする。

裁判では、自白の任意性や信用性は検察が立証する義務を負う。弁護側が取り調べのあり方に異議を唱えた場合、検察側が客観的な証拠を出して立証をしない限り、「疑わしきは被告人の利益に」の原則に従って、任意性や信用性を認めない、という原則的な判断を最高裁がしていれば、警察や検察はもっと早くに録音・録画に踏みきり、今頃法制化の論議をするまでもなく、「可視化」は進んでいただろう。それをやってこなかった裁判所が、冤罪の構図を作り、放置してきたようなものだ。

今年、再審無罪となった東電OL殺害事件では、一審が「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の鉄則に忠実に無罪判決を出したのに、東京高裁がそれをひっくり返して有罪とし、最高裁がそれを追認した。このような明らかな誤判があっても、誰も何の責任もとらないどころか、なぜ間違ったかという検証さえ行わない。誤判で無実の人を刑務所に送り込んだ3人の裁判官のうち2人は今も現役で、出世街道を進み、今は東京高裁と東京地裁の裁判長だ。

このような状況に対する批判も込めて、私は全ての裁判官に×をつけようと思う。10人に×をつけるので、勝手にこれを「×10(バッテン)プロジェクト」と名付けてみた。

一票の格差をなくすように求めている、一人一票実現国民会議も、全裁判官に×をつけることを推奨している。最高裁は、前回の選挙が「違憲状態」とは認めたものの、一票の格差をなくし、どこの地域でも同じ重さの一人一票を実現すべき、という姿勢は誰にも見られないため。

もちろん、業績なり人柄なりを知っている裁判官がいて、「この人は信任したい」と思えば、その人は×をつけるのを避ければいい。また、×をつけることにはどうしても抵抗がある、という人は、衆院選挙の投票だけを行って国民審査を棄権する方法もある。

いずれにしても、もう漫然と「よく分からない」から無記入の信任票を投じるのではなく、司法に対する意思表示をする国民審査にしたいと思う。

あなたも「×10プロジェクト」に参加しませんか?


<筆者紹介> 江川紹子  1958年生まれ。東京都杉並区出身。ジャーナリスト。神奈川新聞社を経てフリーに。オウム真理教問題、冤罪事件や災害、教育問題などについて取材活動を重ねる。コメンテーターとしてのテレビ番組出演や雑誌記事執筆、著作も多数。