陽明学成立の遠因


 王陽明(1472〜1529)は、明代の最上位の高級官僚。家柄も良く、成績も抜群で、軍隊を率いる将軍としても天才的だった。その執務多忙の間にも学究研鑽を怠らず、朱子学の勉強に努めた。そんな彼が気づいたのは、朱子文献に通説とは違う一面があること。彼は、これを朱子が晩年に到達した最終的な真説として論じた。これが陽明学。つまり、陽明学は、王陽明の学説ではなく、朱子の学説の解釈。朱子学学。


 とはいえ、その後、陽明が着目した朱子文献がかならずしも朱子晩年のものではないことが明らかとなり、主流派から排除され、朱子学とは別の陽明学と見なされるようになる。しかし、朱子晩年のものではないにせよ、朱子文献に主流派の解釈とは相容れない文言があるのは事実だ。この原因は、朱子(1130〜1200)より前、旧法党、とくに二程子兄弟の齟齬に遡る。


 最初は、王安石(1021〜86)が『周礼』(しゅらい)の一国斉民思想に戻るべく、「新学」として『孟子』の性善説を取り入れ、「新法」として零細な商人や農民を扶け、中間の特権的な士大夫(地主商人官僚)を抑えようとしたことに始まる。これに対し、同時代の旧法洛党の司馬光(1019〜86)は、『孟子』を否定し、『礼記』(らいき、礼に関する論文集)の中の『大学』を取り上げ、その序の、天賦の才は等しくはありえない、だから世間に秀でた者が庶民を治め教えるべきだ、との節を引いて、士大夫の必要性を説いた。しかし、『孟子』か、『大学』か、という古典同士の権威の争いでは、すれ違いで議論にならない。そこで、朱子は、『孟子』の言うように万民が等しく性善であるにしても、やはり『大学』の言うように人間には優劣があり、政治と社会を牽引する士大夫が必要である、と理論づけた。


 ここにおいて、朱子が用いたのが、理気二元論だ。理として万民が性善であるとしても、気の乱れで民衆は理を外れている。これらを理に沿わせるべく、修養によって理に適うようになっている士大夫が必要である、という。この部分は、旧法党でも、司馬光ではなく、二程子、すなわち、程顥(ていこう、明道、1032〜85)と程頤(ていい、伊川、1033〜1107)の兄弟の思想から取ってきている。ただ、兄の程顥は53歳で亡くなり、弟の程頤が74歳まで生きて、その言葉を伝えた。ところが、兄の程顥と弟の程頤では、じつはまったく考え方が違っていたのだ。


弟程頤による兄程顥の歪曲伝承


 兄の程顥は、洛陽出身、業績抜群ながら、中央の政争に懲りて、地方官として転々とすることに甘んじ、学問に生きた。彼は、自然を愛し、天理を学び、その中に「道」としての一体の気を直観的に感じ取り、庶民はもちろん世界の痛みや喜びを自分のものとする「仁」をめざした。ここにおいて、司馬光と違って、王安石が理想とした、性善説の仁を解く『孟子』を高く評価した。


 一方、弟の程頤は、もともと科挙に失敗して官僚にすらなれなれず、在野に埋もれていた。にもかかわらず、厳格な修養によって、だれでも聖人君主になれる、との屈折した考えを抱き、古代儀礼に執着拘泥した。旧法洛党の司馬光は、この程頤を好み、自分の後継者として強引に新皇帝の側近に送り込んだものの、現実の政治状況を無視したまま、学識の信念のみに基づいて古式回帰を強硬に主張したために、1186年、中央から排除されることになる。


 兄の程顥は鷹揚で、広く人望があり、学問においても天才的だった。しかし、85年に死去。おりしもちょうど中央政界から放逐されてしまった弟の程頤は、兄の学説を伝えることで門人を集めた。しかし、だれでも修養で聖人君主(ただの立派な君子ではなく実際の政権を執る天下人)になれる、という考えに固執する彼には、天下全体に神経(「仁」)を張り巡らし、万物万民と喜怒哀楽を共にする、などという兄の超人的な思想を受け入れることができなかった。そこで程頤は、『礼記』の中の『中庸』という論考から、体(無心)が天理に適う中正であればいい、という「敬」の話に矮小化してしまった。


 朱子もまた、理想と現実の違いを理気二元論で説明するに当たって、二程子の思想を参考にし、とくに弟の程頤の中庸のアイディアを修養の中心においた。しかし、これには当時から、陸象山(1139〜93)が疑問を呈し、二程子の兄の程顥と同様に、力動的な万物万民一体の「仁」を説いて、朱子の静止的な無心の中正、「敬」を批判している。


事上磨錬:善悪の良知を実行実現する


 朱子はカント的だ。理気二元論は、いっさいの物質を含まない純粋な世界、「太虚」を想定し、その理に比して、現実は物質による乱れがある、とする。また、心についても、いまだなんの内容を含まない純粋な体を想定し、これが気で乱れていると、実際の用としての情が欲にゆがむ、としている。だから、実際の物事に接する前に、なんの内容をふくまない純粋な体の段階で、気が理に中正する「敬」に整えなければならない、と考えた。


 これに対し、陽明はデカルト的だ。何の物質も無い純粋な世界など無い。なんの内容も含まない純粋な心など無い。無心なら心も無い。むしろ心は、つねに内容に付随して起きる。○○がうれしいとか、かなしいとか、○○が無かったら、うれしさ、かなしさの心もあるまい。心の無い心を中正にする「敬」など、意味が無い。


 陽明は、朱子の文献の中に、程頤が中庸論では説明し切れなかった兄の程顥の壮大な万物万民一体の仁の思想を見つけてしまった。ここにおいては、程顥がなぜ旧法党であるにもかかわらず、司馬光と違って『孟子』を高く評価したのかも明らかになる。つまり、万民だけでなく、万物もまたすでに性善なのだ。つまり、物質の世界こそが、そのまま天理を体現しており、本来であれば、善なる世界になるようになっている。


 人もまた、本来であれば、性善であるから、世界の喜びを喜びとし、世界の悲しみを悲しみとするようにできている。そして、自分が何をすべきかの答えは、外界の物に問うまでもなく、自分の自然な心の中にこそある。しかし、もしそうでないとすれば、心が理を外れてしまっている。それは外界の物に対する性善な人間の知覚と情感、「仁」が欠けているからだろう。だが、人間はむしろおうおうに善、つまり、自分のすべきことを知っていながら、行わないのではないか。そこにこそ大きな問題がある。良知を実行と合一させなければならない。


 同様に、世界もまた性善であるから、本来であれば、理に沿って、すべてうまくいく。しかし、ときにそうでないことがあるとすれば、つまり、理に適っている心に沿わないことが起こるとすれば、それは、世界の方がなんらかの原因で理を外れてしまっている。それを知ることができた以上、善なる理の道に戻るように、それを正してやらなければならない。


 朱子において『大学』の八条目の最初の「格物」は、物にいたる、物事の道理を知る、という意味だ、とされたが、陽明は、これを、物をただす、であるとした。また、朱子においては、まず格物、そして致知、さらに平天下にまで修養を広げていくと考えられていたが、陽明においては、もとより平天下以下すべてうまくいっているはず。そうでないとすれば、国をただし、家をただし、身をただし、そして、物をただす。つまり、良知を致す、善を実行することに尽きるとされる。


 ここにおいて、知は、他人ごとのように冷めた物事の博覧知識ではなく、自分もまた当事者であるという善悪の倫理意識のことだ。三綱領についても、その善悪を知る良知こそが明徳であり、それを知っているだけでなく、それを明らかにする、実行する、ことが明明徳であるとされる。また、朱子がかってに書き換えた「新民」を原文通りの「親民」に戻し、これを万物万民一体の仁を持つべきことであると考え、止至善は、天地本来の性善の状態を保つこととした。


陽明学の分離


 陽明は、この自分の考えを、あくまで朱子が晩年に到達した最終的な真説と考えていた。ところが、主流派は、この陽明の考えが、朱子を批判し、朱子と論争した陸象山に近いことにすぐに気づいた。また、陽明が挙げた論拠が、朱子の晩年の言葉ではないことも文献学的に明らかにされた。こうして、陽明の朱子学学は、異端とされることになった。


 しかし、朱子の学説に沿わないとはいえ、朱子の方が凡庸な程頤の理屈っぽい解釈を介することで、その兄の程顥の天才的なアイディアを歪曲矮小化してしまっていることは、これまたもはや文献学的に明らかだった。また、朱子は、王安石と司馬光の新旧論争において、あくまで限定譲歩的に『孟子』の性善説を容認し、そのうえで『大学』や『中庸』を援用して、その万民性善説を現実において否定したが、朱子と孟子であれば、孟子の方が古い以上、孟子の万民性善説の方が優位でなければならない、というのが、古典権威主義的な中国の学問の原理原則だ。朱子ごときがなんと言っていようと、孟子の方が正しい、とする方が理に適っているとされた。


 かくして、陽明の考えは、もはや正統な朱子学学であるなどと主張する必要がなかった。孟子や程顥、陸象山の系譜にあって、凡庸な程頤の歪曲を介する朱子学と並ぶ、いや、それ以上の正統な理解であると考える人々が出てきた。もちろん政府の科挙は、あくまで朱子学を公認したが、こうして朱子学を官学として広めれば広めるほど、朱子の学問的ないかがわしさも知られるところなり、朱子学を深く修める者であれば、むしろ陸象山や王陽明の思想の方に傾いた。


 もとより朱子学は、地位も財富も無い在野の閑寂にありながら、みずからを磨いて求心力を付け、天下をもみずからの足下に納めんとする野心的な思想だ。一方、陽明学は、いきなり大政権の中枢の役を担わされて、どうやってこの好状況を維持していくか、腐心する守勢。いわば、創業者と世襲社長の違い。


 また、朱子学は、気の乱れに右往左往してばかりいる愚民どもを蔑視し、腹の据わった士大夫こそがエリートとして政権を取るべきだ、と考えている。これに対し、陽明学は、もともと天下人であることが前提だが、天理を同じくする庶民のばらばらの言行にも同等に理を認め、これらすべてをうまく感じ取ることこそが天下人に求められる。朱子学は、欲は気の乱れだとしてすべて否定してしまうが、陽明学では、農民が豊作を望むように、商人が利得を求めるのは道理であり、そのそれぞれの欲に素直に従うことが天理だ、とされ、それらの欲の実現をそのまま我がことのように重んじ計らう仁が天下人には求められる。


 さらにまた、陽明学は、世界は本来は善なる世界を維持する、という楽観的な天下性善説なので、世界は本来は善になっていくように神が創造した、というキリスト教の摂理説とも相性がよく、万民一体の仁はそのままその博愛の精神と重なり、致良知は、回心し霊として生きる、という話とつながった。同様に、このキリスト教の摂理説を踏襲しているレッセフェール(なすにまかせよ)の社会や経済の自由主義とも、陽明学は相性がよかった。くわえて、朱子学があくまで自分自身を中華とし、外野や庶民の現実を雑音として徹底的に排除することを旨として、近代化のきっかけを逃したのに対し、陽明学は、すべての事象を天理の一端として自分に取り込むことに努めたことによって、時代の変化の波をうまく受け入れることができた。


 ただし、朱子学は、学べばだれでも天下取りの聖人君主になれる、とするのに対し、陽明学は、あくまでもともと天下人である者の、天下人としての心得、つまり帝王学であって、なんの政治的配慮の権限も無い、そこらの庶民が高名な政治家たちの顰みをまねて陽明学なんかやったところで、茶番になるだけ。くわえて、朱子学は八条目の階梯を順を追って修養していけばいいが、陽明学はいきなり、万物万民一体の仁を養う、などという、どう考えても天賦の才なしにはできないような超人的なことを要求する。


 万物万民一体の仁もないくせに、基本の朱子学を侮って最初から陽明学なんかに心酔すると、自分の感情的な独善を天理とかってに誤解し、それに変に確信を持って強引に実現しようとする偏狭なテロリストになってしまう。陽明学は、生まれながらに天下人になるべく中庸中正の感覚を全身に叩き込まれてきた文字通りの本物のエリートのためのもの。そうでないなら、まずきちんと朱子学を学んで中庸中正の感覚を身につけてからにした方がいい。


by Univ.-Prof.Dr. Teruaki Georges Sumioka. 大阪芸術大学芸術学部哲学教授、東京大学卒、文学修士(東京大学)、美術博士(東京藝術大学)、元テレビ朝日報道局『朝まで生テレビ!』ブレイン。専門 は哲学、メディア文化論。著書に『悪魔は涙を流さない:カトリックマフィアvsフリーメイソン 洗礼者聖ヨハネの知恵とナポレオンの財宝を組み込んだパーマネントトラヴェラーファンド「英雄」運用報告書』などがある。)