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「倒れる予兆は、気が付かなかったけれど、たぶんあったんでしょうね。というのは、私は倒れる3年ぐらい前から何があったか思い出せないんです。ただ、当時から血圧は高くて。お医者さんに、お酒は控えなさい。タバコは吸ってはいけないと言われていたことは覚えています。にもかかわらず、毎晩バーボンをグイグイやっていたし、タバコも多い日は5箱ぐらい吸っていましたから。こうした不摂生がたたったんでしょうね」

そう当時を振り返るのは歌手・内藤やす子さん(66)。75年、デビュー曲『弟よ』で一躍脚光を浴び、その後、『想い出ぼろぼろ』(76年)、『六本木ララバイ』(84年)が大ヒット。89年、90年にはNHK紅白歌合戦にも出場した彼女が、脳出血で倒れたのは06年5月のこと。福島県福島市内のホテルでのディナーショーのさなかだった。幸い命は取りとめたもののこれ以降彼女は「記憶障害」「認識障害」「失語症」「右半身マヒ」という4つの後遺症と闘うことになった――。

「ステージで倒れて、福島市内の病院に搬送された私は特別室に運ばれたそうです。後遺症のひとつ、右半身のマヒについては福島の病院で看護師さんから『内藤さんは右利きだから右手で持ちましょうね』と言われて。スプーンやお箸を右手で持つようにしましたけど、落としちゃう。だから食事は本当にたいへんでした。このことはなぜか覚えています。でも幸い治療か、リハビリのおかげなのかわかりませんけど、右半身のマヒはすぐになくなったみたいです」

献身的な看護にあたったのは、95年に結婚した英会話学校教師の夫・マイケルさん(44)。なんと彼女より21歳年下だ。

「旦那は仕事の関係で、最初は2〜3日に一度“通い”でした。でも東京と福島ですから。通いは大変だということで私の病室に泊まり込みになりました。福島の病院には3カ月ほどいて東京へ戻りましたが、当時は自分が『内藤やす子』だということもわからなくて。それだけじゃなく字も書けない、足し算や引き算もできない状態だったそうです。全部忘れてしまって。そこで、旦那が手始めに小学1年生の国語や算数、理科……のドリルを買ってきて私に勉強させたんです」

「記憶障害」と「認識傷害」の日々は続いた。出かけた先で、どこにいるのかすら分からなくなってしまうことも多かったという。

「当時の私には『危ない』とか、『怖い』という感覚というか、認識すらなかったみたいです。すべてのことに対して“無”の状態。そんな状態だから、旦那との会話や意思の疎通もちぐはぐでした。彼に『やす子はどう思いますか?』と聞かれてもスムーズに返事ができない。思っていることが言葉にできなくて。また返事をしてもピントが外れていたり、返事が二転三転して『ごめん』と謝ったことが何度もあったように思います。いまでもたまにそういうことがありますけど……」

そんな彼女が自分が「内藤やす子」であること、マイケルが「夫」であることを認識できるようになったのは5年前。倒れてからすでに5年の歳月が過ぎていた。

「倒れる前の3年を入れて8年間。この間に起きたことは、ほとんど覚えてないというか、認識できていないんですね。また、みなさんと普通に近い状態で会話ができるようになったのは2年前、いや、1年半ぐらい前でしょうか」

その間、経済的な面を含めて生活すべての面倒を見ていたのが夫・マイケルさんだった。

「彼は、私が倒れてからは仕事を抱えながら献身的に私を支えてくれたと思います。たとえば食事にしても、倒れてからは旦那が毎食作って食べさせてくれました。いまもそう。お金の話をすると、倒れてから私の収入はほとんどゼロに近い状態で、旦那の収入がすべてでした。そういう面でも彼は私を支えてくれたんです。倒れてから10年余り。今日、私があるのは彼のおかげで、旦那には本当に感謝、感謝ですね」

今年6月には、12年ぶりに新曲『あなたがいれば』をリリースするまでに回復した。

「歌手としてはまだまだ不完全で。新曲の歌詞も完璧に覚えられなくて、カンペ(=カンニングペーパー)を見たり、プロンプターを付けて歌っています。昔の歌もそうです。これでは大好きなライブもおぼつかないので、歌詞を見ないで歌えるよう、家で一生懸命練習しています。これがクリアできたら、まずライブをやりたい。できれば大きな会場で。そして将来的には、もう一度NHKの紅白歌合戦に出場したいと思っています(笑)。それが、私を支えてくれた関係者、そして旦那への恩返しになると考えていますので……」