Q:ここからはキャリアのお話を聞かせて下さい。まず、Wikipediaには「6歳からサッカーを始められた」という記述がありますが、小学1年からサッカーを始められたんですね。

A:たぶんそうですね。幼稚園でもやっていたと思うんですけど、チームに入ってとかではなくて、幼稚園で遊びでやっていただけなので、小学校1年生で柏イーグルスに入ったのが6歳ということだと思うんですよね。2つ上に兄がいて、兄も既にサッカーをしていたので、「僕もやりたい」ということで始めました。幼稚園の時にイーグルスの人が、スクールみたいな感じで教えに来るようなことがあったんですよ。それで、その人の影響でイーグルスに入ったんだと思います。住んでいたのは松戸だったんですけど、わざわざ北柏まで通っていましたからね。

Q:普通に考えれば小学生にとって、松戸から北柏はちょっと遠いですよね。

A:そうですね。北柏からバスが送迎してくれていたんですけど、やっぱりちょっと遠かったので(笑)、小学4年の時に地元の新松戸SCというチームに移ったんです。それが僕にとっては良かったと思うんですよね。新松戸SCのチームメイトもみんな上手かったですし、松戸選抜にはヴェルディにスカウトされるような人がいたりとか、レベルが高かったんですよ。それで松戸選抜に行った時に、元々いた選手がレギュラーで、自分はレギュラーになれなくて、その選手から「ポジションを奪おう」という所から自分の本当のサッカーがスタートしたと僕は思っていて、それまではちょっと遊び感覚でサッカーをやっていた所があった中で、「コイツに負けられない」とか「コイツからポジションを奪ってやろう」なんて思ったのは初めてだったと思うんですよね。サブから這い上がって行くというような、そういう気持ちがあの時点で経験できたのは良かったですね。

Q:当時の松戸選抜にはのちのちJリーガーになるような選手はいたんですか?

A:僕らの代にはいないですね。みんな結構良い所までは行ったんですけど。その下の代には結構いるんですよ。原一樹(北九州)とか大久保裕樹(千葉)とか、市船(市立船橋)には松戸出身が多かったですね。

Q:そう考えると松戸自体が千葉の中でもサッカーが盛んな地域という感じなんですね。

A:そうですね。今でもそうだと思いますけど、中学の時の松戸選抜はレイソルのジュニアユースに普通に勝ってましたからね。まだ高体連がちょっと強い頃で、市船に行った選手もいますし、僕みたいに習志野に行った選手もいますし、割と良い所に行ってサッカーをやっていた選手がたくさんいたので、レベルは低くなかったと思います。

Q:そうすると小学校の頃は県選抜には入っていなかったんですか?

A:何回かは行ったと思うんですけど、県選抜というかトレセンみたいな感じで、自分の中では「サッカーをやった」という感じがあまりなかったんですよね。「真剣になってやるという感じではないな」と感じていて、自分の中では松戸でやっていた時期というのが大きく残っていますね。

Q:栗澤選手の代の千葉県は結構Jリーガーを輩出していると思いますが、小学校の頃のスーパースターは誰だったんですか?

A:永井俊太(現・柏U-18監督)は有名でしたよ。あとは誰だろうなあ…
中学校の頃はジェフも結構強かったですよね。阿部(勇樹・浦和)さんが1個上にいて。だから、高校の頃も国体は強かったですよ。でも、全国で2連覇ぐらいしていたのに、僕らの代は全国に出られなくて(笑)

Q:メンツは結構いたはずですよね。

A:市船がオランダ遠征から帰ってきたばかりで、周りとのコンビネーションが合わなかったんだったと思います。市船以外組はこっちで練習をやっていて、市船組が帰ってきて一緒にやったんですけどダメでした。中澤聡太(C大阪)もいましたけど、その時のチームは市船メインでしたよね。

Q:中学時代は新松戸北中学校サッカー部ですよね。当時の千葉にもクラブチームはいくつかあったと思いますけど、普通にサッカー部に入った感じですか?

A:僕は小学校の時にレイソルのジュニアユースに落ちたんですよ。

Q:そうだ!(鈴木)潤さんのインタビュー記事で見てました(笑)

A:でも、当時の松戸選抜の監督が「中学校のサッカー部でも成長できる」みたいなことを言っていた覚えがあるんですよね。今でも覚えているんですけど、みんな呼ばれて「別にオマエら次第で成長できるだろう」みたいに言われた記憶があるんです。だから、中学がバラバラになっても選抜で集まったりとか対戦したりとかして、そこで「仲間と対戦できる」という喜びもありましたね。まあ自分が落ちちゃっただけなんですけど(笑)

Q:レイソルのジュニアユースは自分で受けようと思って受けたんですか?

A:いやあ、そんな感じではなかったと思うんですよね。親同士の話し合いとかで受けたんですけど、お金だけ取られたのかもしれないです(笑)
結構受けに来ている人がいましたからね。1次、2次とかあって。

大重広報:今も4次までありますからね。

Q:当時より今の方がさらに入るのも難しいかもしれないですね。

A:人数は今よりももっといたんじゃないですかね。今はもうそんなに受けないですよね。仕組みもみんなわかっているでしょうし。当時はそこまでレイソルのジュニアユースも有名ではなかったですから。でも、その中学校時代はキャプテンをやらせてもらっていたので、自分が練習メニューを考えたりもしていました。そういう中での“なにくそ精神”が今の自分を創っているというか、決してエリート街道を歩んできた訳ではないので、高校も全国大会とかも出ていないですし、当時は嫌でしたけど、そういう経験も今から考えると凄く良い経験だったのかなと思いますね。中学校も頑張っていたからこそ、習志野高校への推薦ももらえましたしね。実際は「市船に行ったらどうだったかな」とか思ったこともありますけど、たぶん「走りたくない」みたいな感じで習志野に行ったと思うんですよね。

Q:たぶん当時の本田(裕一郎)先生と布(啓一郎)先生は対照的ですよね。

A:本田先生がテクニックを重視するというのはわかっていたので、それで行ったんですけど、行ったら行ったで中学の時よりレベルが一気に上がるというか、2学年上の人たちにはプロに行く人たちもいましたし、玉田(圭司・C大阪)くんなんてスーパースターでしたし、やっぱりそこで挫折とは言わないですけど、さらに高い壁を見せ付けられましたよね。

Q:習志野と市船のお話が出ましたけど、高校に進学する時にはいくつも選択肢があったんですね?

A:そうですね。千葉県でもその時は専修大松戸とか、市船とか習志野には声を掛けていただきました。たぶん「松戸の中で何人か良い選手がいたら」という感じで、市船にも3人ぐらい行きましたし、習志野には2人で行きました。

Q:それだけ松戸選抜のステータスがあったということですよね。

A:たぶんそうですね。でも、どこが良いかは行ってみないとわからないですよね。実際僕は習志野を選んで正解でしたから。