不定期にお届けしている、ぶらいおんさんの「極私的鑑賞ノート」シリーズ。

前回は昭和20年代後半の作品群が中心だったが、今回はぐっと時代がくだり、壮年時代に観た、自分にとっての「No.1」映画について語ってもらう。

セルジオ・レオーネ最後の傑作

今回は筆者が、これまで観た映画の中でNo.1と評価して来た作品について、書いてみたい。

もしかすると、このコラムを読んで下さる(老若男女を問わず)殆どの方がご存知ない映画かも知れない。

その作品とは、アメリカ・イタリア合作のワーナーブラザーズ映画『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(原題:Once Upon a Time in America)、マカロニ・ウェスタンの巨匠とも称される、セルジオ・レオーネ監督・脚本作品であり、10年以上の構想の末に1984年製作された。

どんな作品か?まあ、それは徐々に述べて行くが、一言で言ってしまえば、「ギャング映画」か?

パートIIIまで存在する、この作品より一般的に有名な「ゴッドファーザー」もそうなのだが、「ギャング映画」と呼ばれる映画は、日本人の常識からすれば、現実からおよそ程遠い「お話しの世界」ということになるのだろうが、その中身は意外にも、日本人(特に、我々世代のような日本の高度経済成長期に身を置いた者)にとっては、身につまされる点も少なく無い。それが最も端的に表れるのは、集団を維持するための"組織"にまつわる色々な問題についてである。しかし、これは本題では無いので、メインルートに戻ろう。

ウィキペディアによれば、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は、カンヌ国際映画祭で先行上映され、そこで高い評価を得るが、アメリカ公開時には批評家たちから酷評された。原因は、一般観衆に受け入れられやすくするため、製作会社が物語の時系列を整理し、映画の上映時間を大幅に短縮、更にエンニオ・モリコーネの楽曲までカットしたためである(ただし、日本やヨーロッパの一部の国ではオリジナル版がそのまま公開され、高い評価を得る)。

筆者は、このオリジナル版を日本で観たに違いない。そして、更に筆者の手元にはDVD『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』完全版、ディレクターズカット・バージョンがあり、この原稿を書くに当たって、何年かぶりに視聴してみた。そして、色々関連する事項を思い出した。

そもそも、この映画は日本では何処で、いつ頃、初上映されたか?

それは、有楽町マリオン内にオープンした日本劇場(現TOHOシネマズ日劇スクリーン1)のこけら落とし上映作品ということであり、筆者は、これを、その頃入会していた都民劇場映画サークルが取り上げた(呼び方は正確では無いが)定期(公演?)作品として鑑賞した。

そして、当時会員に配布されていた会報に、この映画について、(今まで観た映画の中で、一番映画らしい、映画として)高く評価する旨の感想を投稿して、掲載されたのだが、これは既に廃棄してしまって、今、筆者の手元には無い。

筆者にとって、広く芸能関係の諸々を鑑賞するに際して、大きく影響を及ぼしたのは、他の鑑賞サークル入会の経験もあるのだが、実は、この「都民劇場」である。

そのことは、またの機会に触れるにしても、日本全国の方々に理解して頂けるように、「都民劇場」なるものを、そのHPの資料から紹介して置きたい。

『沿革〜都民劇場の歩み〜
都民劇場は、優れた演劇・歌舞伎・音楽を手頃な会費で定期的にご覧いただく会員制の鑑賞組織で、昭和21年(1946)創立の日本で一番古い歴史と伝統を持つ鑑賞団体です。昭和21年、戦後の荒廃の中で希望を失っていた人々に、演劇や音楽を通して、夢と潤いを提供しようという目的のもとに、学識経験者と当時の東京都教育局関係者らの発案で誕生しました。
創立当初は、歌舞伎、新劇、オペラ、映画をトータルに鑑賞し、ときには制作していましたが、時代が落ち着き、鑑賞する方々の趣味の多様化に応える形で、演劇、歌舞伎、音楽、新劇、映画と、順次5つの専門サークルに分かれ、現在は演劇・歌舞伎・音楽・新劇の4つのサークルとなっております。』

筆者は、現在は無くなってしまったという、その前の時期の5つの専門サークル内の「映画サークル」会員として参加していて、都民劇場映画サークルが選定した作品として、この『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を観たことになる。また、筆者の都民劇場の参加自体は、この映画サークルに限らず、「歌舞伎、新劇、オペラ、映画をトータルに鑑賞していた」時期まで遡るのだが、これは本題では無いので、別の機会があれば、そこで詳しく述べることにする。

さて、また脱線を本来の軌道に乗せよう。先ず、この映画のあらすじ紹介に移ろう。

『映画の冒頭は、残虐な殺しと、拷問のシーンで始まる。警察とグルになったギャング(?)が血眼になって探しているのは、主人公のユダヤ系ギャング、通称ヌードルス(ロバート・デ・ニーロ、少年時代:スコット・タイラー)だ(時は、多分1933年...筆者が生まれた年に当たる)。

追っ手からどうにか、何処へか?と逃げ延びた、その出発点となる、同じ駅に実に35年経って(背景にビートルズの「Yesterday」が流れている。)、年老いたヌードルスが戻って来た。

そして信頼する元の仲間の一人、今では小さなレストラン主のファット・モー(ラリー・ラップ)を訪ね、身を寄せながら、ヌードルスをこの町に呼び寄せた謎の手紙(ユダヤ教会墓地移転の通知なのだが、ファット・モーとヌードルスが受け取った日に8ヶ月ものズレがある。)を解明しようとする。

この映画は半世紀に及ぶ友情・愛・裏切りをノスタルジックに描く一大叙事詩的大作、と言われている。1920年代初頭、ニューヨークのユダヤ人街に住む少年、ヌードルスはチンピラ仲間を率いて貧困街で悪事の数々を重ねていた。そして一方では、ファット・モー(レストラン主の息子)の妹でバレリーナか女優を目指しているデボラ(エリザベス・マクガヴァン、少女時代:ジェニファー・コネリー)に思いを寄せていた。

そんな或る日、その町に引っ越して来たマックス(ジェームズ・ウッズ、少年時代:ラスティ・ジェイコブス)と運命的な出会いをした二人は徐々に意気投合しながら、禁酒法下で荒稼ぎを続け、大人になった頃には、いっぱしのギャングとなり、可成り荒っぽい仕事にも手を染めるようになっていた。

しかし、調子に乗り過ぎたようにも見えたマックスが、余りにも非常識な仕事(連邦準備銀行の襲撃)の計画を立て、その無謀な考えに同調できなかったヌードルスは、表面的にはマックスを裏切る形になっても、自分たちの生命だけは失わずに済むと考えた末に、別件の悪事情報を、警察に流した。ところが、ヌードルスがチャイナタウンの阿片屈で麻薬に溺れている間に、マックスはヌードルス抜きで計画を実行してしまったことを、後で知る。しかも、マックスは事件の際、先に発砲したため、彼と同行の仲間2人と共に警察官に射殺された、という。それを聞いたヌードルスは命からがら町を抜けだして、見知らぬ遠い地へと旅立った。その間、何処で、何をして暮らしていたか?本人も明かさないし、また誰も知らない。

その奇妙な謎を解いて行く内に、マックスと仲間の屍体は、ユダヤ教会墓地移転の前に、別の場所へ既に移されていた、という事実が明らかとなって来る。謎は深まるばかりだが、その中で自在に展開して行く現在と過去の数々の回想シーンが交錯する。このシーンの転換に際して、非常に効果的に使われているゲオルゲ・ザンフィルのパンフルートのメロディーが非常に印象的である。

探って行く内に、どうやら、この手紙は時の商務長官ベイリー(ジェームズ・ウッズ)から送られて来たらしいことが浮かび上がって来る。果たして、ベイリーとは何者なのか?

この事態は、いわば、どんでん返しのようなものである。今や商務長官ベイリーへと変身したマックスが、実は周到な計画に基づいて一芝居打った裏切り行為によって生じたことが判明する。

そして、現在、商務長官であるベイリーは汚職の疑いで追求されており、彼の証言を恐れる黒幕の人物達から、その生命を狙われていることを彼自身自覚している。逃れようのない自分の生命を、せめて過去に親友だったのに、自ら裏切った男の手で殺されるべく招待状を出し、予め殺人依頼の費用まで送ってあったのだ。

丁度良い機会だし、どうせ殺されるなら、お前にやって貰いたい!「お前の恋人を奪い、お前に成り代わった俺の裏切りに対する復讐をここで果たせ!」と詰め寄るベイリーに対し、ヌードルスは静かに答える。「長い間、人殺しはやっていない。歳を取って目が悪くなったし、手も震える。俺はやらない。」と言って、静かに隠し扉から姿を消す。

裏門から密かに街路に出たヌードルスに大型のゴミ処理トラックが近付いて来る。ここで、最終的な何か恐ろしいことが起こるか?という観客の心理に逆らい、何事も起きないが、カメラはゴミをすり潰して行くスクリューの動きを追う。「社会のゴミを黙々と処理するマシン」という象徴的な解釈もあるだろう。

最後のシーンは、ヌードルスが追われ始めた以前に、耽溺していたチャイナタウンの阿片窟のベッドに横たわり、恍惚とした表情の果てに、ニヤッと笑顔を浮かべる、ロバート・デ・ニーロ扮するヌードルスの顔の大写しで映画は終わり、その停止したヌードルスのクローズアップ・シーン上をエンドクレジットが流れて行く。

「この映画のストーリー自体が現実か、阿片の幻想による夢なのか?」というような批評もあった。

尚、本作品は意外なことに、僅か7本しか監督作のないセルジオ・レオーネの遺作となった。(一部<allcinema>の資料を利用した。)』

セルジオ・レオーネが実際に撮影したフィルムの上映時間は10時間に及んだ、という。これにカットにカットを重ね、日本やヨーロッパの一部の国で上映されたオリジナル版は多分、205分(劇場再公開版)であったろう。それでも、途中でintermissionの入るような長編であった、と記憶する。因みに筆者の視聴した(ディレクターズカット・バージョン完全版)は229分である。

上にも述べたように、この映画の評価は分かれるが、日本では1984年度のキネマ旬報ベスト・テン 外国映画ベスト・ワンに選ばれている。

筆者が『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を「これまで観た映画らしい映画のNo.1として挙げて来た」理由について、少し述べてみよう。

先ず、"ぶらいおん"にとっては、音楽の要素が大きく影響する。この映画では、エンニオ・モリコーネの素晴らしい主題曲が英国アカデミー賞の作曲賞を受賞している。また、挿入曲が非常に多彩かつ効果的に使用されている。それらの具体例を挙げて置くと、「アマポーラ」、コール・ポーターの「Night and Day」、ジョージ・ガーシュインの「サマータイム」、アーヴィング・バーリンの「God bless America」、それに何とビートルズの「Yesterday」までが利用されていた。このことからも、この映画がカバーする年月の長さ(1920年代から1960年代半ばまで)が想像できよう。

筆者が映画らしい映画と考える作品を構成する(音楽のケースは上に述べたので、それ以外の)要素を幾つか挙げてみよう。

1.<時の流れを感じさせる幅のあること>...前述のような長い年月のスパン。この場合、必然的に俳優が、時の経過を全身で表現することになる。『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』のケースでは、それでも足りず、少年、少女時代と成人時代とを、実際には異なる、しかし、よく似た、夫々二人一組ずつの俳優が演じ分けている。

2.<日常とは異なる世界が取り上げられていること>...この映画の場合はギャングの世界だ。そこには我々の身の回りでは普通あり得ないようなバイオレンスやエロスに満ち溢れている。

その意味では、この映画には、可成り強烈なそれらが存在し、到底18歳未満の未成年の視聴に供せるものでは無い。筆者自身、改めてディレクターズカット・バージョンのDVDを見直してみて、暴虐な殺しのシーンや、今や美しい女性に成長し、ハリウッドへ旅立つことになったデボラのために、海辺の貸し切りレストランでのロマンチックなディナーを準備し、「アマポーラ」を演奏する楽士達の中、二人だけでダンスを踊り、浜辺で将来の夢を語り合ったヌードルスが、「彼より、女優の夢を取る」と宣言したデボラを送って行く車の中で、泣き叫ぶ彼女をレイプするシーンが延々と続くのには些か辟易させられた。

それなのに、何故?これまでこの映画をNo.1に挙げて来たのか?改めて、考えてみて、それを訂正した方がよいのでは無いか?とすら思った。そして、その原因は何処にあるのか?想像してみた。そこに明快な答えは無いのだが、考えられるのは、筆者自身が、劇場で公開版を観たときの年齢(多分、アラフォー)より遥に歳を取ったことによる気力体力の衰えか?または(よく言えば)考え方が老成した結果か?或いは劇場公開版では、ディレクターズカット・バージョンと比べて、当然そのようなシーンは(まるっきりカットされることは無いにしても、可成りカットして)短縮された可能性がある、その結果、受け手(観客)の方の抵抗感も軽減したのかも知れない。

また、今では有名女優となったデボラは結婚こそしていないが、ベイリーの愛人として暮らし、一人息子がいる。ところが、その名前はヌードルスの本名、ディヴィッドだという。実際にそれはベイリーの子供なのか、それとも例のレイプの際のヌードルスの息子なのか?その答えは観客の想像に任されている。

3.<謎解きの妙のあること>...この映画は上にも述べたように、そもそも時系列に従って構成されていない。パンフルートのメロディと、登場人物の様子や周りの風景で、そのシーンが現在なのか、それとも過去なのか?観客自身が、直感的に判断しなければならない。
そういうこともあって、観ていると謎が次々と現れて来て、観客には、それを順次解いて行くというスリルがある。その意味ではサスペンスに満ちた推理小説を読み解くような楽しさがある。

批評家達も指摘しているのだが、細かく観察すると辻褄の合わぬような個所も無い訳ではない。しかし、それによって作品の価値が下がることは無いし、むしろ、逆に大雑把にそれらを包んで愉しむことだって出来るし、曖昧だからこそ却って良いのだ、とすら言えるのかも知れない。

考えても見て欲しい。全てが理路整然としていて、どこもかしこも辻褄のぴったり合う、秩序立った映画だったら、そんなものに果たして魅力があるだろうか?また、わざわざ鑑賞してみようという気が起こるだろうか?

あらゆる出来事は夢のようなものだ...。「自分は生きているんだ!」と意識してみても、本当にそうなのか、どうなのか?それは誰にも分からない。

「全ては、夢のまた夢」と感じさせてくれることこそ、映画というものの本質の一端では無かろうか?

そんな意味で、筆者には『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は、誠に映画らしい映画ということになる。たとえ、筋の流れに多少の矛盾があろうとも、また(現実の世界で、決して好きなわけでは無いが)目を背けたくなるような暴虐な殺しや、また美しい女性の品位を破壊し、尊厳を踏みにじるようなレイプシーンがあったとしても...。

案外それはロールプレイングゲームで、何人もの人物をやっつけて、バーチャルな世界でストレスを発散し、現実の世界では温和しく秩序を守って生活する若者たちと共通するようなものがあるのかも知れない。

筆者として、一言付け加えるなら、そんな効用を云々するより、映画は立派な芸術作品、それも総合芸術として非常に価値のあるもの、と私は考えている。

たとえば、この映画の終わり近くのシーンで、年老いたヌードルスが、何者かも、はっきり知らずに面会したベイリー商務長官と語り合うバックグラウンドで、何処かのラジオかテレビから、低く「Yesterday」のメロディが(ここでも)流れて来るだけで、二人の長い関わり合いの年月の中の、今の時点が明確に表現されるし、長年の親友同士でありながら、今や境遇もはっきり異なり、また長い間の裏切りの結着をどうつけるか?について揺れ動く二人の心情が、カメラで接近した、その場の雰囲気や、彼らの外見上の表情や動作から視覚的、聴覚的に感じ取れる、という表現方法は矢張り映画ならでは、と言えるのではあるまいか。

物故した映画評論家の締めのセリフでは無いが、「いやぁ、映画って本当にいいもんですね〜」と言いたくなって来る。

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筆者:ぶらいおん(詩人、フリーライター)東京で生まれ育ち、青壮年を通じて暮らし、前期高齢者になって、父方ルーツ、万葉集ゆかりの当地へ居を移し、今は地域社会で細(ささ)やかに活動しながら、西方浄土に日々臨む後期高齢者、現在100歳を超える母を介護中。https://twitter.com/buraijoh