中国残留孤児や家族向けの日本語教室が、数年前まで神戸にあった。1992年、19歳で祖国の地を踏んだ残留孤児2世の地畠(ぢばたけ)宏さん(43)=明石市東人丸町=は、ここで語学や習慣を一から学び、神戸大大学院を修了した。妻子と幸せに暮らす今、脳裏に浮かぶのは、教室の創設者で兵庫県海外同友会(現HKD)元専務理事の故藤岡重司(しげじ)さん。他界から丸15年の10月1日に合わせて感謝の思いをつづり、長男に手渡した。(藤村有希子)


 地畠さんの父恵太郎さん(83)=神戸市西区=は、設計士の父と5歳で中国に渡り、戦後の混乱を経て残留孤児に。89年、約半世紀ぶりに吉林省から故郷岡山に帰った。

 同省で生まれた地畠さんも父を追い、大学卒業後の19歳の時、弟や母と共に岡山へ。家計を支えるため、建設現場で日雇い労働を始めた頃、母が神戸の引き揚げ者から「子どもの将来を考えるなら日本語教育を受けさせて」と強く勧められた。

 一家は帰国数カ月後に神戸へ移住。地畠さんと弟は、神戸市中央区の兵庫県福祉センターにあった教室を訪れ、自己紹介した。

 〈90度の深い礼にならず、藤岡先生は“もっともっと”と言いながら、両手を(兄弟)2人の背中に置き、何度も押してくれた。その一幕に、藤岡先生をはじめ、受講生の皆さんも大笑いされた〉

 目上の人には頭を深く下げる、という作法を教えられた。これで場が和み、兄弟は周りに打ち解けていった。

 就職のことを考え、勉学が好きだった地畠さんは、神戸大大学院を志すようになった。自ら大学に出向き、教授に入学したいと熱意を伝えた。

 〈藤岡先生に報告すると凄(すご)く喜び、“一度その教授に会い、あなたを推薦する”。後日教授から研究生として受け入れが可能との連絡を頂いた〉

 研究生を経て95年、院生となり、その後、日本国籍を取得。自然科学研究科(当時)の博士課程を修了し、大手建設会社に就職した。弟は弘前大を卒業し、千葉で勤務医をしている。

 藤岡さん自身、旧満州(中国東北部)からの引き揚げ者。終戦の混乱期、日本の赤ちゃんが中国人に預けられるのを見て「現地にいた者の責任として(孤児の)受け皿をつくらなければ」と教室を開いた。無給、無休で奔走し、受講生から「日本のお父さん」と慕われ、2001年10月1日、亡くなった。

 〈一日もこの運命転換の教室を引き揚げ者に与えてくれた藤岡先生を忘れることはない〉

 地畠さんはこのほど、神戸市兵庫区に住む藤岡さんの長男司さん(69)を訪ね、約2千字につづった思いを披露。司さんは「父は何よりも帰国者の自立を願っていた。きっと喜んでいると思う」と目尻を下げた。

 〈いまでも挫折した時、背中に藤岡先生の強い手の力を感じ、耳元に“もっと! もっと!”と毅然(きぜん)たる声が痛いほど響いてくる。そして負けずに、立ち止まらずに、戦っていく気力を先生が与えてくれるような気がする〉


★神戸新聞NEXTに手紙の全文を掲載しています。


【兵庫県海外同友会の日本語教室】

全国初の中国帰国者向け日本語教室として1978年、神戸市中央区の兵庫県福祉センター内に開講。その後、88年に厚生省(現厚生労働省)の「県中国帰国者自立研修センター」となって教室は続いた。2000年、帰国者減で同センターは閉鎖。01年、同友会が再開したが10年、幕を閉じた。開講からの32年間で約3千人が巣立った。