第二次世界大戦の激戦地、フィリピン・レイテ島の日本人捕虜収容所で終戦直後、手書きの壁新聞として発行され、戦後は遺族や元捕虜による情報交換の場となった「曙光(しょこう)新聞」が廃刊した。遺族の高齢化で読者数が減少し、資金繰りも厳しくなったためだが、「若い世代に受け継いでいきたかった」と惜しむ声も上がっている。

 曙光新聞は、終戦翌年の1946年1月、日本兵ら延べ約5万人が収容されていたフィリピン・レイテ島パロの捕虜収容所で、「祖国の情報がほしい」との要望を受け米軍の許可により創刊された。編集スタッフ約10人も捕虜で、朝日新聞記者で陸軍報道班員だった影山三郎さんが編集長、毎日新聞記者で陸軍に召集されていた丸山仁一(じんいち)さん(いずれも故人)がデスクを務めた。

 新聞では、英字紙翻訳や日本の復員船船員への取材を基に、激動する世界情勢や日本の復興の動きを伝えた。

 46年4月14日発行の15号では、国際法上の捕虜の取り扱いを紹介する記事が「1面トップ」。米国占領下の日本で日本語をローマ字化する計画があることや、フィリピン・ミンダナオ島で終戦を知らずに抗戦を続ける日本軍部隊に降伏を勧告する軍使が出発することも報じた。「曙光」は夜明けの光を意味し、捕虜たちは、毎週日曜日に張り出される新聞を食い入るように読んだという。捕虜の帰国により46年11月の36号でいったん終刊した。

 戦後30年の75年、捕虜収容所で過ごした仲間の集まりがきっかけとなり、当時、立教大非常勤講師だった影山さんが再び編集長となって曙光新聞を「復刊」。フィリピン戦の生還者が体験記を寄せたほか、戦死した肉親の最期を知る手掛かりを得ようと遺族が投稿する「尋ね人」欄などを掲載し、郵送で読者に送った。

 父がレイテ島で戦死したさいたま市大宮区の阿部孝雄さん(79)も、この欄への投稿がきっかけで生還者と出会い、父の部隊の終焉(しゅうえん)地を知った。戦時中に母も亡くし戦災孤児として育った阿部さんは「フィリピン戦とゆかりのある多くの人と知り合えて、戦後の苦しみや苦労を分かち合えた」と振り返る。

 最盛期には600人以上いた読者は、遺族の高齢化で半数以下の266人に。100歳近い人々も増え、発行原資の年会費も徴収しにくくなっていった。

 終戦直前にレイテ島で自決した陸軍第16師団長・牧野四郎中将の次男で、2006年から編集長の元産経新聞編集委員、牧野弘道さん(81)=千葉県成田市=は、昨年から発行を年4回から2回に減らして継続を模索したが、読者の減少と財政難に歯止めがかからず、今年8月の154号(B5判24ページ)が最後となった。牧野さんは「今後は表裏1枚の『曙光通信』を年に数回出して、遺族による『尋ね人』欄だけは続けたい」と話す。

 フィリピン戦の従軍者と遺族らで作る交流団体「曙光会」の活動は今後も続け、来春には会員同士の懇親旅行も行う。【袴田貴行】

 ◇フィリピンの戦い

 1941年12月の日米開戦後、日本は米国の植民地だったフィリピンを占領。マッカーサー将軍率いる米軍は44年10月、フィリピン奪還を目指してレイテ島に上陸し、45年3月にはルソン島の首都マニラを陥落させた。山下奉文大将率いる日本軍は山岳地帯で抵抗を続けたまま終戦を迎えた。一連の戦いで日本軍は約50万人が戦死、フィリピン人も当時の人口の7%、約110万人が犠牲になったとされる。