阪神大震災が起きた1月17日が訪れるたびに、元神戸大留学生で英語教師のミャンマー人、エーティンラインさん(59)は米・ニューヨークで犠牲者に祈りをささげている。1995年のその日、住んでいた神戸市東灘区のマンションが崩壊し、同じ建物にいた同郷の女友達2人を亡くした。自分も重傷を負ったが奇跡的に助かった。「人生は短い。私らしくありたい」。2人に対して生き残った後ろめたさを感じるが、新天地の米国でささやかな幸せを実感できるようになった。

 エーティンラインさんは旧首都ヤンゴンで日本語を教え、91年4月に来日した。母国では教材さえ見つけるのが難しく、留学は悲願だった。日本語学校を経て94年に神戸大文学部の研究生に。生活費や学費のためにスーパーでレジのアルバイトをした。

 震災前夜、こたつで勉強をし、目覚ましを午前6時に合わせて寝入った。ふと目を覚ますと午前5時半だった。「もう少しだけ」と目を閉じた時だった。縦に横に激しく揺れ、何が起きたか分からなかった。「死にたくない」と日本語で叫んだ。

 天井がV字状に落ちた。暗闇の中、がれきに押されて額は熱くなり、手の感覚はなくなっていた。「息が苦しい、早く出して!」。同じマンションで暮らすウェイモウルインさん(当時35歳)の叫び声が聞こえた。キンテッスエさん(当時36歳)の声は聞こえない。彼女の部屋が遠いからだと思った。この2人は、スーパーで一緒に働き苦楽を共にする大切な留学生仲間だった。

 闇の中でお経を唱え、涙をこらえた。鉄筋の隙間(すきま)から救出されたのは6時間半後。7階建てマンションは、3人が住んでいた1階部分が完全につぶれて6階建てに見えた。周囲から「助けられたのはあなただけ」と聞いても、2人も救出されると信じていた。

 エーティンラインさんは右腕を複雑骨折し、額には傷。痛み止めを打ちながら転院を重ねた。震災4日後の21日朝、兵庫県加古川市の病室から朝日に照らされる山や工場を見て、何気ない風景に目頭が熱くなった。だが2日後に手術をしたその日の夜、電話で2人の死を知らされた。

 震災後も神戸にとどまった。「神戸以外の人は、誰も私を理解できない」と思った。骨折の手術を受けた翌月、大学院文学研究科(言語学)の入試に合格した。大学院では体や心の痛みを隠して普段通りに振る舞った。だが、本当はあの日を境にすっかり自分が変わっていた。

 「新しい人生は新天地で始めたい」。思いは日ごとに募り、大学院を卒業した99年にアメリカへ。中南米やロシアから来た人たちにコミュニティーセンターで英語を教え、慕われてきた。日々のちょっとした幸せや自然の美しさに触れたとき、2人へ語り掛けている。「私がここで生きることを許してくれてありがとう」【松本杏】