鹿児島空港から東へ約1キロ。年間500万人以上の利用客でにぎわう空港の風景とは対照的に、ひっそりした山あいの中に肥薩線の表木山(ひょうきやま)駅(霧島市隼人町嘉例川)がある。昨年9月、設置から100周年を迎えた。戦前から多くの人々を送り出す役割を担い、地域の移り変わりを見続けてきた。

 霧島市街地を北へ。日当山温泉など由緒ある温泉地の間を抜け、国道223号を左に折れる。山道を走ると、駅を示す木製の道しるべがあった。鉄骨製の駅舎は数人も座ればいっぱいになる広さしかなく、駅員はいない。1時間に1本程度の列車が停車するかしないかを示した時刻表や、近隣の路線図とともに、駅に停車した蒸気機関車などの写真が駅舎の中に展示されていた。撮影されたのは1972年ごろのようだ。

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 JR九州によると、表木山駅は16年9月4日、鹿児島線の信号所として設置され、4年1カ月後に駅に昇格した。かつては同じ霧島市内の沿線にある嘉例川(かれいがわ)駅、大隅横川駅のように立派な木造の駅舎(ともに国の登録有形文化財)があったという。農業を営む川崎澄則さん(86)は青年時代、仕事が終わって夕方になると、駅の待合室で仲間と「今日は何をしよう」などと語らった。夜でも明かりがあるのが駅だけだったからだ。当時8人の駅員が働いていた。嘉例川駅周辺まで線路脇を約40分歩いて、映画を見たりパチンコをしたり、盆おどりを楽しんだという。

 川崎さんは、ホームが人で度々あふれそうになった光景を記憶している。日中戦争から終戦まで、出征する兵士を何十人も見送った。戦死した兵士を迎えるのも駅だった。

 鹿児島空港が開港したのは72年。当時、建設工事に携わる大勢の作業員で、駅は朝な夕なににぎわった。木材需要が多かった時代、周囲の山々から切り出した木々を積み込んだ貨物列車が停車した。高度成長期には10代の少年少女が東京や大阪へ働きに出た。

 旅立った若者たちの多くは古里に戻ることなく、都会で家庭を築いた。定年退職後に帰郷した人々もいるが、駅周辺の山あいではなく、通院や買い物に便利なまちなかを住まいに選んだ。地域から人の姿が減ると同時に、高齢化も著しい。現在、表木山地区の人口は最も多かった頃の半分ほどという。

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 駅のホームを歩いてみた。保線作業員の姿が目に入る。熊本方面に向かうホームには、駅名を示す表示板の下に「開設100周年記念」と書かれた高さ約30センチの碑があった。地区で育った樋口高さん(70)によると、碑は住民約50人が資金を出し合って建てたものだ。「昔は交通手段が鉄道しかなかった。地域のみんながお世話になった」。そんな気持ちを込めて建てたのだという。

 駅の周囲は花壇などがきれいに整備されている。気がつくと、ホームに列車が停止していた。乗降客の足音は聞こえず、ディーゼルエンジンの振動音だけ静かな山あいに響いていた。【津島史人】

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 ■メモ

 戦前、戦後の表木山駅 戦時中、鹿児島空港周辺には海軍航空隊第2国分基地があり、特攻機も飛び立った。海軍飛行場建設当時、動員された大勢の人々が表木山駅で乗り降りした。線路周辺は米軍機の機銃掃射も受けた。戦後は食糧難を背景に、都会から農作物を買い求めに大勢の人が鉄道で訪れたという。