五島市の男女群島・女島灯台への空襲や、長崎と福江島を結んだ連絡船「長福丸」への銃爆撃の様子など、戦時中の五島列島にまつわる多数の写真を、国土交通省航空局航空管制技術官の深尾裕之さん(45)=青森県在住=が、米国立公文書館から入手した。深尾さんは2015年春まで五島市の福江空港に勤務。地道な独自調査で、米軍の攻撃や、ほとんど記録がなく不透明だった五島列島における旧日本海軍の軍事施設の実態を明らかにした。  写真はモノクロで、空襲や爆撃の瞬間を鮮明に捉えている。撮影者は米軍機の搭乗員。深尾さんは「当時の(日本側の)施設や対空レーダーなど電子機器の様子も見て取れる」と語る。女島灯台は1945年4月29日以降、二十数回の空襲を受け、長福丸も同年5月14日、奈良尾沖で米哨戒機2機の銃爆撃で多数の死傷者が出た。こうした戦時中の五島の状況については五島文化協会が証言を集め2011年に発行した労作「五島に暮らす〜戦中戦後・汗の記録」に記述があるが、写真など視覚的な記録は極めて乏しかった。  深尾さんは、福江島の航空基地として整備された富江水上飛行場(通称・小浜飛行場)=43年建設=と、富江陸上飛行場(同・野々切飛行場)=44年建設=の詳細も調査。近くの富江湾は当時、中国大陸や南西諸島へ行く海上航路の重要拠点。小浜飛行場は小規模な水上機用、野々切飛行場は広範囲な作戦を担う基地として、それぞれ整備が進められたらしい。  また、特攻基地は中通島の鯛ノ浦、福江島の奥浦、同島の大浜にあった。鯛ノ浦は特攻艇「震洋」の基地として整備され、五島列島で唯一、特攻部隊(第六十二震洋隊)を配備。奥浦は特殊潜水艇や魚雷艇、大浜は震洋の基地として整備され、共に特攻部隊の配備には至らなかったが、整備のため予科練生が集められたという。  深尾さんは、同公文書館での資料収集の他、基地設営に携わった県外の元少尉や予科練生の証言を集め、遺構を踏査。戦後間もないころのものとみられる旧海軍佐世保鎮守府の図面提供を海自佐世保史料館から受けたほか、元特攻隊員からも資料を託され「自分が死ねば捨てられるだけのもの。ぜひ活用して」と背中を押された。この元隊員の資料には防衛省防衛研究所も関心を寄せているという。  そうした資料などを基に、深尾さんは福江島の航空基地の当時の様子を平面図で作成。現在の福江空港近くにあった野々切飛行場には二つの滑走路がV字型であり、敵の攻撃から守る無蓋掩体壕(むがいえんたいごう)が周囲に24個存在したなどとしている。  佐世保市宇久島の見張り所などを含め、調査結果の一部はこれまでに五島文化協会の同人誌「浜木綿」に寄稿、掲載。同会は、新たな内容を含めて早ければ今年中にも書籍にする予定という。  同会の筑田俊夫会長(70)は「初めて知るものばかりで、本当にすごい。後世に残したい」。深尾さんは「五島には多くの軍施設があったにもかかわらず、記録が残されていない。(特攻艇格納庫や無線電信所など)当時の基地の遺構の保存と活用も強く求めたい」と話している。