■本日の言葉「preexisting condition」(前からある状態、既往症)■

国際ニュースに使われる英語をご紹介するこの月曜コラム、今週はアメリカを席巻している「医療保険改革なんかいらない!」騒ぎについてです。国民皆保険を当然のものとしている日本人にはなかなか理解しにくい、あの人たちは何をあんなに怒って恐れているのか、についてです。(gooニュース 加藤祐子)

○アメリカの夏は怒鳴り合いの夏

アメリカの夏は、医療保険改革の夏になってしまいました。もっと正確に言うと、医療保険改革に反対する(主に)白人保守派が各地のタウンホール・ミーティングで激高し議員を怒鳴りつけ、「オバマは私のお祖母さんを殺すつもりだ!」「みんなオバマが怖いんだ!」などと叫ぶという。

アメリカの保守派白人の極論ぶりを知っていたつもりの私でも、「なんなんだこれは……」と当惑するほど。「なんでこうなのか」の説明を探していたら、「それが分からないあなたは、アメリカが分かっていない」とやりこめられる記事を見つけました。

ジャーナリストで歴史家のリック・パールスタインは米ワシントン・ポストに寄稿し、「アメリカにはクレージーという既往症がある(In America, Crazy Is a Preexisting Condition)」のだと。そしてタウンホールミーティングで怒鳴りまくる白人たちは、保険業界や保守派組織に扇動されて演出されている部分もあるが、それだけでないのだと。

いわく、彼らは本当に自発的に「草の根」的に、オバマ政権が提案する「見知らぬもの」を恐れて怯えて怒鳴っているのだと。アメリカでは真の政治的変革が起きるとき必ず、こうやって「扇動された自発的な怒り」が噴出するものなのだと。アメリカという国では「リベラル政治が台頭するたびに、クレージーな木が満開の花を咲かせ、エリートたちは自分たちの利己的な利益のために、クレージーな連中を悪用する」のだと。アメリカはそういう国なのだと理解できなければ、アメリカは理解できないのだと。

……なるほど。ではその「クレージー」の噴出をいったん乗り越えないと、医療保険の中身の話はアメリカでは出来ない。この8月の暑い最中でのこの騒ぎは、ある種のガス抜きだったのか——と考えるのはうがちすぎでしょうか。それくらい、アメリカでの医療保険議論(議論と言えるのかどうか)は日本人には、とても理解しにくいもので。

○4600万人が無保険のアメリカ

国民医療保険制度は国家の財政を圧迫するから自己負担率を上げるべきだが、上げすぎると医療費が払えない人が出てくる。あるいは保険料すら払えない人たちはどうすべきか。保険適用となる治療、あるいは適用除外になる治療の違いは誰がどう決めるべきか。保険点数の高い治療や投薬ばかり患者に押し付ける医者はどうしたらいいのか———。

医療保険制度について日本人になじみのある議論というのは大体こういう内容だと思うのです。国民全員が収入のいかんを問わず、健康維持に必要な医療を受けられるようにするには、社会がどうやって負担を分担すべきか。これが、議論すべきことだと。日本のように、(ILOによると失業者の77%が無保険状態だという問題がありつつも)国民皆保険が当然のこととして社会に組み込まれている国では。

けれどもアメリカは違います。そもそも国民保険制度がなく(公的保険に加入できる高齢者と低所得者は例外として)、ひとりひとりが保険会社と契約しなければ病院に行くたびに全額負担だというのが、アメリカのいわば「伝統」です(医療ドラマ「ER」にはたびたび、保険会社に治療の支払いを断られたとか、医師が勧める治療法ではなく別の治療法を保険会社が要求してきたとか、そういうやりとりが出てきますが、あれです)。

そしていまアメリカでは、4600万人が無保険状態だと言われています。理由は保険料が払えなかったり、失職と同時に医療保険も打ち切られてそのままだったり、既往症(preexisting conditions)があるから加入が認められなかったり、既往症の治療費が限度額を超えるから加入が認められなかったり。あるいは加入後に病気にかかり、契約を打ち切られたり。

こういう問題だらけの状態を変えなくてはとアメリカではたとえばクリントン政権が医療改革に乗り出したものの、保険業界や製薬業界ロビーの強力な抵抗にあって頓挫。そして医療保険改革を公約して大統領になったバラク・オバマ氏も、保険業界と製薬業界と保守派の強硬な抵抗に遭っています。

冒頭で書いたように、8月に入り民主・共和両党の議員が各地で開いているタウンホール・ミーティングが、実に派手な侃々諤々の非難中傷と怒鳴り合いの場になっていて、「town hall」ではなく「town hell (地獄)」だと言われるほど。

○「死の委員会」というフレーズが

オバマ政権の医療保険改革に声高に反対しているのは、おそらく自分は医療保険に入っているだろう白人高齢者だったり、まだ健康保険の必要性がそれほど身にしみていないのかもしれない白人の20代〜30代。そういう人たちが中心となって、声を荒げているのです。

民主党による説明がこれまであまりに分かりにくかったということもありますが、反対派が問題にしているのは財政への影響や個人負担率のことよりもまず、「私のアメリカを壊すな!」と。あるいは「ガンにかかった年寄りや、先天的な障害を持つ子供は治療しないんだろ。それを決める政府の『死の委員会(death panel)』を作るんだろ!」などと。

オバマの「death panel」が私の祖母やダウン症のある私の息子を殺すのよ——などと演説でまくしたてたのは、あの(私は何かを途中で投げ出したりしないと言いながら知事職を任期1年以上残して辞めた)サラ・ペイリン前アラスカ州知事その人でした。

政府が「死の委員会」を作るなど、そんなことはありません。「そんなことはありません」とオバマ大統領自ら語り、ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿しなくてはならなかったほど。オバマ氏の説明によると政府が目指す改革案は、(1)無保険の人に安価な公的保険を提供し、(2)今ある公的保険の非効率を解消し、(3) 保険会社の取り分を減らすことで高齢者の長期的治療を可能にし、 (4) 保険業界への監督を強化し、既往症があるからといって保険加入を断られたり、病気にかかったからといって適用除外にされたり、医療費が払われないなどの問題が起きないようにし、(5) 健康診断、がん検診も保険適用にするためのものです——と。

オバマ氏が自らこうやって分かり易く説明しはじめたことで、今までの騒ぎは少しは静まるのでしょうか。ペイリン前知事やフォックス・ニュースのコメンテーターたちがまくしたてている誤った情報が、おそらく保守派の思惑通りに一人歩きして、法案を読んでいるはずもない人たちを激高させ、そういう人たちが保守派組織のお膳立てにのってタウンホール・ミーティングに乗り込み、「お前たちは私を殺す気か!」と議員に怒鳴ったりするという、そういう今までの騒ぎは。

なぜ保守派はこうなのか。もちろん保険業界・製薬業界の巨大利権にからんで巨額のロビイストマネーが背後で動いているのでしょう。でもそれだけではなく。「私のアメリカをめちゃくちゃにするな!」「この国を社会主義にするな」「オバマ政権はまるで(優生政策を実施した)ナチス・ドイツだ」「私のアメリカを返せ!」と繰り返されるスローガンはいったい何なのか。ただ「クレージー」なのか。それとも、クレージーだからこそ、ともかく大きな政府に自分の生活を邪魔されたくないという頑ななまでの「小さい政府主義者」には、生々しく響くのか。

○「ほっといてくれ」と言って他人の権利を侵害

ペンシルベニア州で民主党のアーレン・スペクター議員が開いた集会で、ある白人のお年寄り男性が議員にこう言っていました(怒鳴りわめいているほかの人とは違って、静かに。でもきっぱりと)。「Just leave us alone(もうただ、ほっといてくれ)」と。

自分の面倒は自分で見るから、ほっといてくれ。ワシントンは自分たちの生活に土足で入ってくるな、と。

独立独歩の自立心溢れるフロンティア精神もかくや、と言えば聞こえはいいですが、ワシントンは別に、この男性が公的保険を必要としないなら決して押し付けようとはしていません。そのことに目をつぶって「ともかくほっといてくれ」と反対している。おまけに自分が良くないと信じることは、他人にも良くないはずだから、他人がそれをする権利にはとことん反対している。

去年の大統領選終盤にやはり保守派が騒いだから騒ぎになった、「オバマは社会主義だ!」騒動にも似ていて。ともかく政府が自分たちの生活に介入するのがイヤだと。だから政府に助けてもらいたいと思っている他人にも「そんなことさせるわけにはいかない!」と。

これは保守派の中絶反対議論にもとてもよく似ています(「中絶は殺人だから、私がそれをしないだけでなく、全ての女性にそれをさせない」というのが、アメリカの中絶反対派の議論)。だから医療保険改革案に反対する白人保守層の多くが、医療保険改革は「中絶を認めている」と騒いでいるのも(実は適用外なのに)、なるほど同じ論法だからで、腑に落ちます。

法案を読んでもいないし、実際にはそういう内容ではないのに、「あんたが病気になったら、治療法を政府が決めるんだぞ。あんたの母さんはもう年寄りだから、死なせた方がいいって政府が決めるんだぞ。あんたに障害児が生まれたら、助からないから死なせた方がいいって、政府が決めるんだぞ。これは陰謀なんだぞ」という毒と誤りに満ちたプロパガンダを保守派コメンテーターや保守派有名人に洗脳されて、「とんでもないぞ!」と怒っているのです。

去年の大統領選のサラ・ペイリン騒動といい、オバマに対する根深い反発といい(「オバマはケニア人だ」とか「オバマはムスリムだ」とか「オバマはアラブだ」とか)、いったいこれは何なのかと。

○繰り返される陰謀論

どうしてこうも陰謀論が繰り返されるのか。

英フィナンシャル・タイムズのワシントン支局長の記事に、ヒントを見つけました。記事中に紹介されていたリチャード・ホーフスタッター(著作『アメリカの反知性主義』が有名)の本『The Paranoid Style in American Politics(アメリカ政治のパラノイア的方法論)』によると、アメリカという国はそもそも陰謀論を受け入れやすい、そういう傾向があるのだというのです。そもそも移民国家で根無し草的なアメリカ社会において、経済的な不安あるいは自分の社会的立場について不安を抱いている人は(そして経済的に困窮する白人家庭がこれにあてはまる)、スケープゴートを作り出して攻撃する政治手法にだまされやすいのだと。

なるほど……! つまりは、「オバマはナチスだ!」と騒いでいる人たちこそ、ユダヤ人をスケープゴートにしたナチスドイツに扇動されたドイツ人と同じだという。何という皮肉。

フィナンシャル・タイムズのエドワード・ルース支局長はこの記事で、「医療制度に関するパラノイアは、アメリカの文化戦争の一部だ」と分析しています。ここで「文化戦争」と強引に訳した「culture war」というのは、大統領選でも話題になった、「主に東岸・西岸や都市部に住み、高学歴・高収入で国際的視野を持つリベラル」vs「主に南部・中西部や農村部に住み、学歴は高くなく、海外渡航歴もあまりない、熱心なキリスト教徒の保守派白人」との価値観・ライフスタイルの対立のことです。

そして後者の保守派白人がなぜ怒っているかというと「非アメリカ的 (un-American)な価値観によってアメリカの伝統的な価値観と、アメリカの憲法がボロボロにされているから」だと。

そしてこうした保守派白人の怒りを前になぜ高学歴リベラルが途方にくれてしまうかというと、オバマ夫妻にしろクリントン夫妻にしろ、そうしたリベラルたちは、「議論の勝ち負けを決めるのは、優れた理性と道理だと信じてきたからだ」と。しかしどんなに理性ある冷静な議論を尽くしても、怒れる保守派を納得させることは不可能だと。「どんなに反対の証拠を並べ立てようが、オバマ氏が『死の委員会』を作るつもりだという考えは、決して消えてなくならない」「どんなに理性的に説明しようが、国民保険制度のあるカナダやイギリスは決して、治療の優先順位の最後尾に弱者を押しやったりしていないと、そんなことはないのだと論駁できない」のだと。

確かに。どんなに証拠を突きつけられようと、月面着陸はなかったと信じたい人は信じるし、9/11の同時多発テロは米政府の陰謀だったと信じたい人は信じるし、オバマ大統領はハワイではなくケニア生まれのケニア人だと信じたい人は信じる。陰謀論というのはそういうものです。しかし、医療保険までがその陰謀論の世界観に染まってしまうとは、私はうかつにも予想もしていませんでした。

自分たちの信じてきたライフスタイルが(なんだヨーロッパ的な、社会主義的な訳の分からない)ものに、とっかわられようとしている。しかもよりによって、ケニア生まれでアメリカ人ですらない黒人大統領のせいで! そう恐れて怯えて怒り狂っている、手負いの動物みたいな状態の人たちに、オバマ的な、あるいはクリントン的な繊細な理性で反論していっても届くはずがない。だからこそ、ルース記者の提案は的を射ていると思いました。

オバマ氏はもっと、ガンと戦って亡くなった(白人の!)母親について語るべきだと。自分の母親は保険会社に治療を拒否されて、死んでいったのだと。こんなことはあってはならないことだ、これは「un-American」(アメリカらしくない)ことだと、もっともっと強調するべきだと。いわば泣き落としにかかればいいのだと。

きわめて理性的で理屈っぽい今の大統領はそういえば、きわめてエモーショナルに「Yes, we can」と呼びかけることで大統領になったのですから。泣き落とし、いやかもしれませんが、やってみる価値はあると思います。白人保守派は、正義感はむやみやたらと強いので。泣き落としで、彼らの義侠心を駆り立てるべきです。でないと、必要な、中身の議論がいつまでたっても始まらない。


◇本日の言葉いろいろ

preexisting condition=前からある状態、既往症
town hall=町役場、公会堂
・hell=地獄
・leave me alone, leave us alone=ほっといてくれ
・culture war=文化戦争、米国の保守派とリベラルの価値観・ライフスタイルの対立
・un-American=非アメリカ的、アメリカらしくない、アメリカにふさわしくない

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◇筆者について…加藤祐子 東京生まれ。シブがき隊と同い年。8歳からニューヨーク英語を話すも、「ビートルズ」と「モンティ・パイソン」の洗礼を受け、イギリス英語も体得。怪しい関西弁も少しできる。オックスフォード大学、全国紙社会部と経済部、国際機関本部を経て、CNN日本語版サイトで米大統領選の日本語報道を担当。2006年2月よりgooニュース編集者。米大統領選コラム、「オバマのアメリカ」コラムフィナンシャル・タイムズ翻訳も担当。英語屋のニュース屋。