つりこまれるような笑顔だった。

「この舞台に戻ってこれたというのが、すごい幸せです」

 9月16日。50m背泳ぎ決勝、そして4×100mメドレーリレー決勝を終えた成田真由美は言った。

 この日までで計5種目。内容が、圧巻だった。

 最初の種目、11日の100m平泳ぎこそ予選落ちに終わったものの、翌日の50m自由形では予選で39秒68を出し自身の持つ日本記録39秒70を更新。決勝では39秒23とさらに記録を更新して5位、入賞を果たす。

 15日の4×100mリレーでは日本新記録で6位。

 そして50m背泳ぎでは、予選で46秒74と自身のベスト48秒89を大きく縮めて3位で決勝に進む。決勝では47秒63とタイムを落としたが5位で再び入賞。

「予選、すごくよかった。ほんとうに驚くような記録で何度も何度も掲示板を見直して、でも困ったなというくらい自分でも驚いて。決勝は(他の選手が)飛ばして来るなと思っていたのですが、負けました」

 そのすぐあとのメドレーリレーでも、日本新記録を出しての7位の1人となった。

20個のメダルのうち15個が金メダル。

 昨年7年ぶりに第一線に復帰し、46歳にして、堂々たる記録を連発したのである。

 数々の好タイムの中でも、50m自由形での記録はクラスは異なるが、2004年のアテネで金メダルを獲得したときの39秒22に0.01秒と迫るタイムでもあった。

「今までやってきたという自信がありました」

 と笑顔を見せる。

 まずはその足跡をあらためて振り返りたい。

 1996年のアトランタパラリンピックを皮切りに、2008年の北京まで4大会連続出場。計20個のメダルを獲得した。うち、金メダルは実に15を数える。

 まさに、第一人者として牽引してきた成田だが、中学生の時に脊髄炎で下半身不随になった。その後は入院生活も含め、長く苦しい闘病の時間が続いた。

 転機は23歳のときに訪れた。知人に誘われ、水泳の大会に出てみたのだ。

水泳の魅力を感じた直後、交通事故でさらなる後遺症が。

 わずかな準備期間しかなかったが、大会では自由形で好記録をマークし優勝する。何よりも、水の中では体が軽く感じられるのが魅力だった。

 しかしその大会の帰路、交通事故にあって左手に麻痺が残ることになった。

 それでも一度知った魅力は忘れがたかった。横浜市内のスイミングスクールで本格的に練習に取り組むと、アトランタ大会へ出場を果たした。

 交通事故の際、実は体温調節機能も失っていた。当然、水泳では大きなダメージだ。

 それでも短い練習時間の中でいかに効率良く強化を図るかを試行錯誤し続け、その結果、アトランタ・パラリンピックでは金2つを含む5個のメダルを獲得するまでに至った。

 その後も病と事故に見舞われ、絶望的にも思える辛い出来事は相次ぐこととなった。

 2000年のシドニー大会で、5種目で世界新記録をマークし6つの金メダルを手にした成田は、2002年に大病を患い、約4カ月の入院生活を強いられる。しかも入院中に、ベッドから落ちて右足を骨折。

 それを乗り越えて出場したアテネでは、自己最多の7個の金メダルを獲得したのである。

 だが、北京ではメダルなしに終わった。

 それまでよりも障がいが軽いクラスに振り分けられたのが理由だった。なぜなのかははっきりしなかった。ただ、そう判断された。

2020年の東京五輪が決まり、復帰を決意した成田。

 その後第一線からはいったん退き、障がい者のスポーツの普及活動などに取り組んでいた成田が復帰を決断した理由は、2020年の東京開催決定にあった。

 2014年に組織委員会理事に就任し、その活動の中で行き着いたのが「泳ぐことで盛り上げたい」という思いだった。

 復帰戦は2015年9月、ジャパンパラ水泳大会。100m平泳ぎの予選で自己ベストをマークし、健在をアピールした。

 迎えた今年3月のリオ代表選考会。50m自由形で40秒90と、リオへの派遣標準記録を女子で唯一突破し、代表入りを果たす。

 迎えた8年ぶりの、5度目の大舞台での活躍である。そして、日本新記録である。

「挑戦に終わりはありません」

 何がその力となっているのか。北京で、成田はこう語っている。

「挑戦に終わりはありません」

 アスリートは誰もが挑戦者であるにせよ、傑出した“チャレンジャー”であることが成田の足跡を支えてきたし、これからも支えていくはずだ。

 復帰後は、挑戦に見合うだけの厳しい練習も積んできた。忙しい仕事の合間を縫ってプールに入り、1日に3000mを泳ぎ、今春からは企業の支援を受けて食生活などでも改善を図ってきた。

 その努力があってこその、リオでの好記録であった。

 若いリレーメンバーたちとともに取材エリアに並ぶ成田は、こうも語った。

「障がい者の置かれている環境とかパラリンピックの知名度を向上させたい。たくさんの障がいを持っている人がいるということ、その命の尊さをみつめてほしい」

 自らのパフォーマンスを通じて、これからも伝え続けるつもりだ。

文=松原孝臣

photograph by AFLO SPORT