「自分たちのサッカー」

 このフレーズを目にすると、音楽やファッションと同じように、サッカーを論じるボキャブラリーにも流行り廃りがあることがよくわかる。ほんの2、3年前まではそれこそ毎日のように耳にしていたのに、今ではファンの間でも、口にするのが憚られるような雰囲気さえある。

 だが、これほどもったいないことはない。日本代表の歴史とは、自分たちのサッカーを巡る議論の歴史でもあるからだ。

「フラット3(トルシエ)」、「黄金世代&4バックか3バックか(ジーコ)」、「日本サッカーの日本化(オシム)」、「結果重視のサッカーか攻撃的なサッカーか」(岡田武史)、「自分たちのサッカー(ザッケローニ)」、そして「縦方向に速いサッカーとデュエル(ハリルホジッチ)」。

 もちろん岡田監督時代の「結果重視のサッカーか攻撃的なサッカーか」という議論のように、監督自身の意図を離れて争点が一人歩きしたケースもなくはない。しかし、自分たちはいかなるサッカーを目指すべきか、何を武器に世界と戦うのかという問題意識は、代表を成長させる原動力になる。

 この原則はブラジルであれドイツであれ、なんら変わることはない。

「自分たちのサッカー」がタブーになった理由。

 では、なぜ今のような状況が生まれてしまったのか。主な理由は3つある。

 1つ目は2014年のショックだ。

 W杯ブラジル大会が開幕する前は、「優勝を目指す」、「自分たちのサッカーを貫けば、自ずと結果はついてくるはずだ」と発言する選手が珍しくなかった。

 ところが結果はご承知の通り。ザッケローニ監督率いるチームは、1分け2敗という惨憺たる成績でグループリーグから姿を消している。この瞬間に「自分たちのサッカー」というお題目は、効力を失ってしまった。

アギーレ解任、ハリルの苦戦が長期的視点を失わせた。

 2つ目はアギーレ監督の解任劇だ。

 ブラジル大会のショックを乗り越えて日本代表の再建が始まったと思いきや、アギーレ監督はサラゴサ監督時代のスキャンダルが発覚。アジアカップの直後に契約解除となる。結果、日本サッカー界は後任探しに大わらわとなり、「自分たちのサッカー」に関する議論は棚上げされている。

 そして3つ目の要因が、現在の代表を取り巻く状況だ。

 ハリルホジッチ監督は「縦方向に速いサッカー」や「デュエル(球際の強さ)」といったキーワードを提示し、独自のコンセプトでチーム作りを進めてきた。

 しかしW杯アジア最終予選の初戦、UAE戦をよもやの1−2で落としたことで、周囲は騒然となる。最終予選の初戦を落としたチームが本大会に進んだケースはなく、「自分たちのサッカー」を大局的に論じるどころではなくなってしまった。この状況は、2戦目にタイを2−0で下しても、さほど変わっていない。

主力の衰えも、パニックに拍車をかけている。

 パニックにも似た状況に拍車をかけるのは、日本代表そのものが下り坂にさしかかっていることを予感させる不吉な兆候だ。

 代表を主軸として支えてきた欧州組は、平均年齢が上がってきただけでなく、往時の輝きを失っている選手が増えている。内田や長友は怪我に苦しみ、本田はクラブ内で控えに回っている。香川や清武、昨シーズンレスターのプレミア制覇に貢献した岡崎でさえ、出場機会を確保するのに苦しんでいるのが実情だ。

 9月15日に発表されたFIFAランキングも心踊る内容ではない。日本は世界の56位。2011年の4月には13位だったことを考えれば、まさに隔世の感がある。

 さらに深刻なのは、アジアにおける地位の低下だ。日本は今やアジア諸国の中で6番手に位置づけられている。昨年のアジアカップや東アジアカップ、そして今回のW杯最終予選が如実に示すように、アジアでの優位性は確実に薄れてきている。

状況を打開するには、やはり理想を掲げる必要がある。

 ならば日本サッカー界は、いかにして現状を打開していけばいいのか。

 重要なのは、今さらではなく、今だからこそ「自分たちのサッカー」をもう一度、正面切って議論していくことではないだろうか。

 たとえば現在の代表を巡っては、メンバーの固定化による世代交代の遅れ、ボックスの周りに選手が集まりすぎる傾向、ビルドアップの遅さ、守備の心許なさが指摘される。これらは、ザッケローニ監督時代にすでに指摘されていたものばかりだ。

 にもかかわらず同じ現象が起きているというのは、ブラジル大会の後、「自分たちのサッカー」についてしっかりと検証がなされなかったことと無縁ではない。

 ただし、前回の轍を踏んではならない。独りよがりの仮定に立つのではなく、あくまでも現実に即して自らの「常識」を疑ってかかる。これが「自分たちのサッカー」を再び論じるための大前提となる。

「パスワークで崩す」は発想自体が古い。

 検証すべき「常識」はいくつも思い当たる。

 まず代表的なものとして、ボール支配率を高めて、細かなパスワークで崩していくスタイルについてである。

 果たして過去の国際大会において、このアプローチで日本が世界の強豪に勝利を収めたケースは過去にあっただろうか? 残念ながら、具体例を思い出すことができない。

 それどころか、自陣に引いて守りを固めてくるアジア諸国を相手にした場合でも、攻めあぐねるケースが多いと言われていたはずだ。しかもタイ戦が象徴するように、アジア相手でも、得点を奪うのはますます難しくなってきている。

 もう一歩進んで考えなければならないのは、「ボール支配率を高めながら、細かなパスワークで崩していくスタイル」なる発想自体の古さだ。

 日本で繰り広げられてきた議論の根幹には、パスワークとボール支配率を重視したサッカー=良質な攻撃的サッカー、カウンターをベースにした堅守速攻=悪しき守備的サッカーという発想がある。しかし現在のサッカー界では、この二択そのものが完全に時代遅れになっている。

 理由は簡単。守備と攻撃の融合がさらに進んだ結果、トランジション(素早い攻守の切り替え)とプレッシング(攻撃のための守備)という考え方が浸透したからだ。W杯やEUROのような代表の大会でも、クラブチームの試合でも、トランジションとプレッシングは共通言語になっている。今やバルセロナでさえもが、カウンターを駆使する時代なのである。

本当に組織的なら、攻撃のスペースは無くならない。

 日本自体のサッカーについて疑うべき「常識」としては、日本人選手はテクニックの水準が高く、ボールの扱いに優れているというものもある。この認識はパスサッカー信奉論の土台になってきた。

 では日本人選手のテクニックの水準は、世界のトップクラスと対峙した場合でも、相手を上回れるものだろうか? そもそも日本人の技術水準がそんなに高いのならば、なぜゴール前であれだけベーシックなミスが起きるのかが説明できない。

 組織性にまつわる議論もしかり。

 たしかにハードワークや献身的な姿勢は、日本という国が世界に誇る美徳だし、社会的な特徴の1つでもある。だが本当に日本代表チームが組織的ならば、ボックス内に人が集まりすぎて機能しなくなる、などという現象が起きるはずがない。

 そしてドイツやイタリア、スペインのようなチームと比べても、組織性で凌駕していなければ、それを武器に世界で戦うということは不可能だ。ただでさえ日本人が身体能力で劣るとなれば、なおさらだろう。

浅野の決定率は世界のトップクラスなのか?

 テーマは、ディテールに関しても無数にある。

 たとえば攻撃のスタイルに関して言えば、ボール支配率を前提にしたパスサッカーばかりを追求するのは危険だが、いたずらに堅守速攻を目指せと主張するのも生産的ではない。

 もちろん、堅い守りをベースにして縦に速く展開する、カウンターから裏を狙うサッカーという発想自体には、文句の付けようなどない。先にも述べたように、代表であれクラブチームであれ、サッカー界のトレンドは完全に堅守速攻型へシフトしつつある。

 しかし、それをどうやって具現化するかというところまで突き詰めないと、画竜点睛を欠くことになってしまう。

 仮に浅野拓磨を軸に縦に速いサッカーで勝負しようとするなら、彼には世界のトップクラスのストライカーと同じか、それ以上の決定率が求められることになる。単純に考えて、決定的なチャンスの回数は世界の強豪国よりも少なくなると見積もるのが現実的だからだ。

サイドに早く展開したとして、その次は?

 サイドアタックの方法も同じだ。

 日本代表の選手たちが各駅停車のビルドアップではなく、両サイドの深い位置に、もっと頻繁にロングフィードをするようになったと仮定しよう。

 しかし真に重要なのは、そこからの崩し方だ。クロスを上げるならば高さのあるフォワードが不可欠になるし、グラウンダーでマイナスに折り返すならば、攻撃的ミッドフィルダーは確実にゴール前に顔を出していなければならない。

 さすがにそこまでのスピードはないということで手数をかけ始めると、敵の守備陣はあっという間に戻ってきてしまう。縦に速いサッカーと一口に言っても、解決しなければいけない問題は山ほどある。

 W杯最終予選を戦いながら大局を論じるというのは、容易な作業ではない。W杯行きのチケットを手にするためには、目の前の勝ち点3を奪うことに何よりも集中することが求められる。とりわけ10月11日のオーストラリア戦は、最終予選序盤の大一番になってくるはずだ。

オシムは「走りながら考える」と言った。

 しかし、だからこそあえて長期的な視点で、議論を重ねて行く必要がある。そのプロセスがなければ、日本サッカー界全体がすぐに手詰まりに陥り、世界に勝つための指針と具体的なアイディアが見えなくなるからだ。ハリルホジッチ監督自身、メディアやファンが真に有益で建設的なアイディアを交換するのを望んでいるに違いない。

 かつてオシムは「サッカーでは、がむしゃらに走ればいいというものではない。重要なのは走りながら考えることだ」と説いた。オシムに寄せて言うなら、日本サッカー界は「目の前の勝ち点3をかけてがむしゃらに戦いながらも、自らが目指すべきサッカーの姿を、体系的に考えていく必要がある」ということになる。

 17戦4勝3分け10敗。これがW杯における日本の通算成績だ。

 2年後のW杯ロシア大会、ひいては6年後のカタール大会で白星を重ねられるか否かは、いかに自分たちのありようを冷静に見つめ、「自分たちのサッカー」について真剣に議論を重ねていくかにかかっている。

文=田邊雅之

photograph by Takuya Sugiyama