“差し込まれる”と“詰まらせる”。

 似て非なる表現だが、打撃では大きな違いとなる。自分の感覚に反し、振り遅れてしまうのが差し込まれる。詰まらせるは、自分の意思で意図的にポイントを遅らせ、ボールを運ぶテクニックだ。

 フラフラっと上がった小飛球を三塁手や遊撃手の後方に落とす安打はイチローならではの技術と言えるが、10年連続200安打が途切れた2011年から昨季まで、イチローは“差し込まれる”感覚と常に戦い続けてきたと思っている。

 昨季、相手バッテリーはイチローに対し、容赦なく高めの速球系、いわゆる150キロ以上のパワー系のボールで勝負を挑んだ。この球に対して差し込まれることが多かった。結果、フォール、ポップフライ、空振りが増えた。高めのパワーボールを意識するがあまり、カーブやチェンジアップのオフスピードの変化球にバットが回ることもあった。メジャー15年間で平均.314の打率を残してきた孤高の安打製造機が昨季残した打率は.229。衰えと結びつけられても仕方のない数字だった。

 だが今年、ご存知のようにイチローはV字回復を果たした。9月25日の時点で打率は.289。昨季のような“差し込まれる”打撃は影を潜め、それどころか150キロ以上のパワー系ボールをことごとく芯で捉える打撃が蘇った。しかも打球方向は大半が右翼を占める。42歳にして高めのパワーボールに力負けしない驚きの事実。米国の野球データサイトであるベースボール・リファレンスにはこんなデータも出ている。

 通算  vs.パワー投手 打率.298
 '15年 vs.パワー投手 打率.255
 '16年 vs.パワー投手 打率.314

159キロを弾丸ライナーで打ち返したオープン戦の衝撃。

 開幕直前、記憶に残る3日間がある。

 3月27日。オープン戦に代打で出場したイチローは、カージナルスの守護神として開幕を迎えたローゼンタールの99マイル(約159キロ)の真ん中高めの直球を弾丸ライナーで中前へ弾き返した。昨季、散々に苦しめられてきた高めのパワーボール、しかも159キロを痛烈に打ち返したのである。

 試合後、イチローに「99マイルでしたよ、あのボール」と伝えると、オープン戦では滅多に真顔にならない男の表情が一変した。彼の頭の中で、回路がグルグルと音をたて動いている。そんな印象を持った。

イチローの打席には、明らかにテーマがある。

 その前日のことだった。イチローはマイナーの練習試合に変則的に出場した。隣接するフィールドで2試合が行われる中、彼は打席のみ立つ形で交互に出場し10打席に立った。

 最初の4打席は遊ゴロ、見逃し三振、遊ゴロ、左翼線二塁打。ボールと思い見逃した2打席目を除き、打球を徹底して左方向に放った。そして、5、6打席目は一転して強引とも思える引っ張りの打撃で一ゴロ。そして、この日のフィニッシュは左中間二塁打と右翼線二塁打だった。

「いい練習になりましたよ。これだけ短時間に集中して打てるとね」

 短い言葉に、多くの狙いと手応えが隠れていると感じた。そして、翌々日の28日。彼は志願して再び同じ調整を行い、10打席に立ったのだった。

 取材を続ける中で、イチローの状態を測る自分なりのポイントがある。左足と打球方向だ。

 踏み込んだ左足が内側に絞り込まれながら、バットは鋭くインサイド・アウトに振り抜かれる。下半身にこの粘りがあるときのイチローは間違いなく好調だ。強い打球が左方向に飛んでいく。この感覚を調整したのが、10打席変則出場の2日間だったのではないか。そして、その合間のオープン戦で見せた、159キロの直球を痛烈に打ち返した中前打。イチローの体と頭が結びつきだした3日間だったと推測している。

「その先はご容赦願いたいと思います。はい(笑)」

 ピート・ローズ越えの日米通算4257安打を放った1週間後、順調なシーズンを送るイチローがこんな言葉を残した。

「4番目の(外野手の)立場は、今年の形というものは、もうキャンプが終わったときに出来ていないとダメなんでね。全然違うんですよ、捉え方は。3番目(までの外野手)は4月が終わったときでいいですけど、4番目はキャンプが終わったときじゃないとダメなんでね」

 そして、2016年度バージョンの打撃を最終確認したのが、4月1日と2日のヤンキースとのオープン戦。本人も認めている。

「キャンプが終わってから、マイアミに戻ってヤンキースと試合しましたよね。あそこがポイントだったですね。その先はご容赦願いたいと思います。はい(笑)」

 2日間の成績は3打数無安打。詳細は98マイル(約158キロ)の直球を二ゴロ、97マイル(約156キロ)の直球を遊飛、92マイル(約149キロ)のツーシームを左飛。“やってはいけない”ことを最終確認し、イチローは今季への準備を終えた。

文=笹田幸嗣

photograph by Getty Images