ホゼ・フェルナンデスが逝ってしまった。2016年9月25日の早暁。乗っていた高速ボートが岩礁(というより岩を連ねた突堤)に激突したのだ。

 こんなことがあってよいのか。あれほど才能に恵まれた若者が、なぜ突然、命をへし折られなければならないのか。理不尽だ。私はフェルナンデスが好きだった。圧倒的な投球を見せながら、なぜかいつも、にこにこと笑っていたような印象がある。めったにいない天才だと思っていた。

 率直にいって、まだ心が乱れている。落差の大きなカーヴで奪三振ショーを演じていたときの姿は、反射的に思い出した。右打者の腰にぶつかるかと思われた球が、急激に曲がってホームプレートを横切り、外角低目へ逃げていく。デビュー時から三振の取れる投手だったが、つい最近に限っても、2016年9月20日の対ナショナルズ戦(8回、12三振)や9月9日の対ドジャース戦(7回、14三振)などは記憶に新しい。

 あるいは、あの無邪気な笑顔。2016年のオールスターの本塁打競争でジャンカルロ・スタントンが破天荒な数字を叩き出したとき、そばで応援していたフェルナンデスは本当に嬉しそうだった。

あと10年、15年はトップで投げられるはずだった。

 エド・デラハンティ(1903年、35歳で事故死)、アディー・ジョス(1911年、31歳で病死)、ロベルト・クレメンテ(1972年、38歳で事故死)、サーマン・マンソン(1979年、32歳で事故死)、ダリル・カイル(2002年、33歳で病死)の名もつぎつぎと脳裡に浮かんでくる。悲劇的な死に遭遇した名選手の数は、けっして少なくない。

 ただ、彼らはフェルナンデスほど若くなかった。1964年に22歳で事故死したケン・ハブスや、2014年にやはり22歳で事故死したオスカー・タベラスの例はあるが、フェルナンデスはあと10年、もしくはあと15年、トップレベルで投げられるはずだった。もっと豊饒な未来を手に入れる可能性もあった。もう少し気持の整理がついたら、彼の足跡を振り返ってみたいと思う。

キンセラの小説は日本でも人気があった。

 フェルナンデスが事故死する少し前の9月16日には、旧知の作家W・P・キンセラが81歳で安楽死を選んだ。しばらく連絡を取り合っていなかったので健康状態の詳細はわからないが、もともと糖尿病を患っていた。

 1995年の9月、ドジャー・スタジアムで一緒に野球を見たときから、そのことは口にしていた。それなのに、イニングの合間になるとピザやアイスクリームを買って、にやにやしながら私にも勧めてくる。

「糖尿病に障らないのか」と訊くと、「夜の7時過ぎは、自分の身体を裏切ってもかまわないんだ」と答える。その顔が、いたずら好きの子供のようだった。あのときは、野茂英雄の試合を見ようというプランだったのに、野茂の登板が前日の対パドレス戦に繰り上がったため、ふたりでドジャース対ロッキーズの試合を見たのだった。

 初めてキンセラに会ったのは、1990年の秋だ。カナダ西部の紀行文を書く仕事を引き受けていた私は、その合間に、ヴァンクーヴァー南郊のホワイトロックという町で彼にインタヴューをしたのだった。キンセラの小説は日本でも人気があった。永井淳さんの邦訳の力もあって、『シューレス・ジョー』、『アイオワ野球連盟』、『インディアン・ジョー/フェンスポスト年代記』といった著作がつぎつぎと刊行されていたのだ。いうまでもないが、映画『フィールド・オブ・ドリームス』('89)の原作は『シューレス・ジョー』である。

「イッチロー」の叫びに、ボンボ・リベラを思い出す。

 陽当たりのよい彼の家で、われわれは2時間以上話し込んだ。大草原の話やマジック・リアリズムの話が出たのは当然だが、野球や相撲の話も止まらなかった。ハワイでダイジェスト番組を見て以来、キンセラは大の相撲好きになっていたのだ。部屋の壁に番付を貼っているくらいだった。

 キンセラとはシアトルでも会った。2001年6月末、「新人」イチローを見ようじゃないか、ということになったのだ。このときは、2試合を一緒に見た。初日がナイトゲームで、2日目がデーゲーム。マリナーズ対アスレティックスの連戦で、イチローはティム・ハドソンやバリー・ジートと対決した。

「観客がイッチローと叫ぶと、ボンボ・リベラを思い出すなあ」とキンセラはいっていた。リベラは'70年代後半にちょっと活躍した選手だが、名前がおかしかった。もちろん卑猥な意味もあって、当時の観客は「ボンボ! ボンボ!」と叫んでは大笑いしていたそうだ。

マリナーズファンは、病気の猫を飼うような心境。

 若いころ、シアトルをよく訪れていたキンセラは、急な坂道を登りながらいろいろな昔話をしてくれた。本屋や手品の話もおかしかったが、いまでもよく覚えているのは、'80年代に万年負け越しチームだったマリナーズを応援しつづけた話だ。彼はこういっていた。

「当時マリナーズのファンをつづけるというのは、病気の猫を飼っているようなものだった。絨毯にゲロを吐いても、蹴飛ばす者なんかいない。こいつは病気なんだ、よくなる日を待とうと考えて、来る日も来る日もキングドームの3階席に陣取っていたんだね」

 その3階席で、キンセラはスパイク・オーウェンのファウルボールを何個も拾ったそうだ。「かならずそこに飛んでくるんだよ」とも付け加えた。愉快な人だった。ロサンジェルスのホテルで菜食主義の朝食が癇に障って、頭から湯気を立てている姿を見たことはあったが、近くのヒルトン・ホテルに連れていってベーコン・エッグを注文したら、機嫌はすぐに直った。楽しい思い出だけが残っている。

文=芝山幹郎

photograph by AFLO