9月25日、日曜日。福岡市内の中心部からほど近い大濠公園では、驚くほどたくさんのランナーがランニングを楽しんでいた。その中に、道下美里(三井住友海上)もいた。

「木曜日(22日)に帰国しました。正直まだ時差ぼけ中です。でも走った方が治るんじゃないかと」

 こう笑顔で語った。9月18日に行なわれたリオデジャネイロ・パラリンピックの視覚障がい者マラソンで銀メダルを獲得。帰国して間もなかった。当日、リオは高い気温と強い陽射しにさらされた。走るには決してコンディションがいいわけではなかった。

「ブラジルのライバル選手だったり、中国の選手も、暑いのは慣れていないんですね。だから有利だと思っていました」

 その言葉通り、粘り強い走りでつかんだ銀メダルの原動力を、道下は「仲間」だと振り返る。

'14年に世界新記録を樹立し、トップランナーに。

 道下は中学2年の時、「膠様滴状角膜ジストロフィ」で右目の視力を失った。25歳のときには左目も悪化し、光や輪郭をぼんやりと感じる程度となった。どうしていけばいいのか分からない中、通い始めた盲学校で出会ったのが、ランニングだった。

 それは人生の転機と言ってよかった。トラック種目に取り組んだ後、2008年、初めてフルマラソンを完走。'09年、結婚を機に福岡県に移ってから「大濠公園ブラインドランナーズクラブ」に所属し、走り込んできた。その後記録を伸ばすと、'14年の防府読売マラソンでは2時間59分21秒の世界新記録(当時)を樹立。昨年のロンドンマラソンでも3位となるなど、世界のトップランナーの1人となった。

 視覚障がい者マラソンは、ガイドランナー、つまり伴走者を必要とする選手が多い。隣でランナーと一緒に走り、途中経過時間や順位、カーブや地面の状態などコースの形状を伝えてくれる存在だ。レースでも、練習でも、信頼する伴走者がいてこそ走れる。安心してスピードを上げることができる。

道下をサポートした人々は約100人にものぼった。

 リオでは、堀内規生、青山由佳の両名がガイドランナーを務めた。

 その2人にとどまらない。

「私が福岡に来て入った大濠公園ブラインドランナーズクラブは、健常者の方とブラインドランナーがともに走ることを楽しむためのクラブです。そこで出会った人たちが、人をつなげるのが上手な人たちばかりで、私がこういう目標で走りたい、と言うとそれに対して協力してくださる方が出てきて、『ここにいる伴走の方だと無理かもしれないから』と、ほかの人を紹介してくれたり、資金的に難しいとなると一緒に集めてくれたり」

 いつしか、周囲の人は増えていった。

「1週間の練習で伴走してくださる方が9人いて、朝だったり夜だったり、時間の都合をつけて一緒に走ってもらっています。ロープを持つのは9人なのですが、その場所に送ってくださる方や給水のサポートをしてくださる方、100人くらいの方がかかわってくださっているんです」

 それを「仲間が仲間を引き寄せて」と表現する。

仲間たちへの感謝の思いを胸に、笑顔で走る。

 リオへ向けて、道下は常に「金メダル」を目標に掲げてきた。それは仲間の存在があったからこそだった。

「性格的に、言葉に出して自分にプレッシャーをかける方がいいというのと、言葉にすることで、周囲の方を巻き込んでいく意味がありました。1人では走れませんし、ともに目標意識を持てば仲間は一緒に動いてくれる。言葉は人を動かす力がありますから」

 このように競技に取り組み、つかんだメダルだから、「原動力は仲間」と振り返る。

「私はもともと才能のある選手ではないと思います。ただのふつうのランナーだと思う。でも、『みっちゃんなら行ける、やれる』と信じてくれた仲間がいてこそです」

 仲間の存在を何度も言葉にする。道下の姿に気づくと、コースを思い思いに走る人たちが「おめでとう!」「よかったね!」と声をかける。駆け寄る人も少なくない。皆、知り合いであるかのように話しかける。

 道下はレースの間、笑顔で走ることでも知られている。サポートしてくれる人々への感謝の思いからだ。多くの人が周囲に集まってきたのは、道下の姿勢そのものではなかったか。そして、走ることへの思いではなかったか。

「東京へ向けての気持ちは、すごい入っています」

「走ることは、生きがいです。走ることによって出会いが連鎖していくのがやめられない理由の1つです。私に出会って、かわったと言ってくださる人がいたりすれば、それが私にとって生きてきた意味があることです。目が不自由な人のことだったり、こういうスポーツを知らない人が知ってくれるとか、それに対して見方がかわるとかそういうふうにつながればいいなと思います」

 銀メダルを手にした今、道下はこう語る。

「表彰台でスペインの国歌を聞いたとき、君が代が流れないのが悔しくて」

 そのとき、2020年の東京パラリンピックが具体的に視野に入ってきた。

「ふつふつと東京を走りたいな、という気持ちが沸いてきました。主人と話したらOKということでした。東京へ向けての気持ちは、すごい入っています。金メダルを獲っていたら、忙しくて練習できなかったかもしれないので、よかったんじゃないでしょうか」

 笑いつつ、こう続ける。

「私はもともと才能のある選手ではないと思いますし、しっかりと準備して、仲間にも協力してもらって、ベストを尽くしたいです」

 仲間とともに、リオでは手にすることができなかった金メダルを目指そうと決意している。

文=松原孝臣

photograph by AFLO