10月8日の2018年ロシアW杯予選マルタ戦では、ウェンブリー・スタジアムに集まるイングランド・ファンにTシャツが配られるはずだった。

 FA(フットボール協会)が用意したTシャツの胸には「力を合わせて歩み始めよう」という意味のメッセージが入っていたという。前月のスロバキア戦(1−0)で、イングランド代表監督としての初陣を予選白星発進で飾ったサム・アラダイスの言葉だ。

 しかし、当日のベンチで指揮を執ったのは、今夏までU-21代表を率いていたガレス・サウスゲートで、Tシャツは廃棄処分。イングランドは、11月15日のスペインとの親善試合まで年内残り4試合を、暫定体制で乗り切るはめになった。

 現地時間9月27日の夜に決まったアラダイス退任は、「お粗末」の一言だ。たった1試合しか采配を振るえなかった前監督は、初練習で実務に当たる前、『テレグラフ』紙が仕掛けたおとり取材で餌食となり、就任から僅か2カ月余りで離任を余儀なくされた。当人は「してやられた」と話しているが、根本的な原因は、自らの「傲慢」と「強欲」という二言。同情の声は極めて少ない。

おとり取材に引っかかり、愚かな発言のオンパレード。

 おとり取材の顛末はこうだ。まずアラダイスは、極東で代理人ビジネス参入を狙う実業家に扮した記者から接触を受けた。40万ポンド(約5600万円)の報酬で、出張講演を含むアドバイザー契約の話を持ちかけられた。基本給だけで年に300万ポンド(約4.2億円)を稼ぐ代表監督職に就いたばかりで、しかもその仕事を、候補止まりだった2006年の監督交代時から10年越しで手に入れた「夢」とまで言っていた人物にすれば、取り合う必要などなかったはずだ。

 ところが、イングランド代表監督のステータスを持つが故の旨い話に欲をかいたとしか思えないアラダイスは、偽実業家と1度ならず2度までも計4時間にわたる会合を持ち、映像に収められた。その言動に、代表監督としての契約違反があったわけではない。

 しかし、選手の第三者保有を禁ずるFAの在り方を「馬鹿げている」と非難した上で「抜け道はある」と指摘した発言から、前任者のロイ・ホジソンやFA総裁を務めるウィリアム王子に関する批判的な発言まで、愚かな発言のオンパレード。

 雇い主であるFAから、名誉ある代表監督として取り返しのつかない「モラル違反」を犯したと判断されたのも当然だ。

理想を言えば母国人の監督を招聘したい。

 結果として、今夏のEURO2016でアイスランドに引導を渡されていたイングランドは、アラン・シアラーの言葉を借りれば「ピッチ外でも世界中の物笑いの種」となり、「これ以上落ちることなど不可能だと思われたところから、更に深いドン底」へと突き落とされることになった。

 終わったばかりの監督人事に再び着手することになったFAでは、マーティン・グレンCEOが「立派な正監督候補の1人」だとサウスゲートを評している。ライバルと目される候補者はスティーブ・ブルース(前ハル)、アラン・パーデュー(クリスタルパレス)、そしてエディー・ハウ(ボーンマス)といった顔ぶれ。

 やはり、理想論で言えば母国人監督ということになる。サッカーの母国としてのプライドもさることながら、FAは4年前に1億ポンドを超す費用をかけてセント・ジョージズ・パークを開設し、国産指導者の育成に本腰を入れ始めたばかり。代表監督が外国人では、指揮官にも外国人が多いプレミアリーグの各クラブに「母国人指導者にチャンスを」と訴えたところで説得力を欠く部分もあるだろう。

ハウは哲学も勇気あるが「若すぎる」!?

 但し、ユース代表監督からの内部昇格となり経路も理想的なサウスゲートについては、当人の就任意欲が怪しい。自ら「時期尚早」と訴えてFAのアプローチを嫌ったのはたった3カ月前のことだ。

 今回の暫定監督指名を「光栄に思う」と快諾してはいるが、正監督としての進路はミドルズブラを去った'09年以来となる、どこかのクラブを考えているとも言われる。

 であれば、国産の後任として白羽の矢を立てるべきは誰なのか。ブルースは、元DFとしての背景といい、プレミア残留と2部からの昇格がメインという監督としての実績といい、「新手のアラダイス」風の香りが漂う。

 プレミア中位勢指揮官のイメージが強いパーデューには明確なスタイルがない。

 その点ハウは、攻撃サッカーの哲学を持ち、信念を貫く勇気も備えている。38歳のプレミア2年生監督と経験は浅いが、ドン底からの再出発を強いられることになった現状を前向きに捉え、世代交代が進む代表チームを、このイングランド人青年監督に託しても良いと思われる。「強い愛国心の持ち主」を自認するハウは、代表監督への興味を公言してもいる。

 問題は、つい数カ月前にハウが「若すぎる」と判断されたばかりであること。そこで、経験豊富なベテランで繋ぐ手を考えた場合に浮上する「大穴」が、アーセン・ベンゲルだ。

フランス人とはいえ、ベンゲルは「準国産」扱い。

 アラダイスが選ばれた今夏の時点でも、FAの第一希望がベンゲルであったことは広く知られている。契約満了がモットーのアーセナル指揮官には、当然ながら今季開幕前の7月に招聘など不可能だったわけだが、来年5月末まで暫定体制で凌ぐことができればクラブとの現契約が満了となる。

 アラダイスの後任選びの中で、「成功を収める監督の平均年齢は恐らく60代。願わくばプレミア経験の持ち主で、イングランド人ならばボーナスのようなもの」というグレンCEOの言葉は、国産監督には固執せずに改めてベンゲル招聘に動くと言っているかのようだ。

 66歳の知将の国籍がフランスではなくイングランドでありさえすれば、FAの意向には国民の大半が賛成しているに違いない。

 だが、監督としてのベンゲルは「準国産」と言ってもよい。ワールドクラスと認識されるようになったのは、1996年にアーセナルの指揮官になってから。プレミア歴20年のフランス人は、イングランドのサッカー界に関する理解と知識でも並の国産監督には引けをとらない。無敗優勝を含む3度のリーグ優勝と6度のFAカップ優勝は、国産候補者の誰も肩を並べることのできない実績だ。

 前回のプレミア優勝は'04年で、解説者のスタン・コリモアなどは「アーセナルでの過去12年間は10点満点中5点の出来」と厳しいが、そのコリモアも代表でのベンゲル就任の可能性を嫌ってはいない。

イングランドが欲する「新たなDNA」の完璧な適任者。

 ボールを支配して足下で繋いで攻めるベンゲルの信心と情熱は、相変わらずプレミア随一。アーセナルの現在のパフォーマンスも、ベンゲルの哲学が見事に反映された内容で、苦手意識を認めてもいたチェルシーにも快勝(3−0)したばかりである。

 そのスタイルは、イングランド復活に必要とされる「新たなDNA」と呼ぶスタイルそのもの。加えて育成熱心なベンゲルであれば、サウスゲートなりハウなりを代表チームスタッフの一員として抱えながら、ノウハウを伝授することも厭わないのではないだろうか。

ベンゲル就任を阻むのは試合前の国歌問題?

 肝心のベンゲル自身も、就任の可能性を否定していない。「まずはイングランド人の後任を探すべき。フランス人の私には違和感がある」と発言してもいるが、その理由は「フランスと対戦した場合、相手である祖国の国歌を歌うことは憚られるが、かといってイングランドの国歌を歌うわけにもいかない」という程度のもの。

 一方では、「20年も過ごせばロンドンに戻って来た時に『帰ってきた』と感じる」とも言っている。招聘実現には今季終了まで辛抱が必要だが、幸いW杯予選では組分けに恵まれた。暫定体制継続でも、マルタの後はスロベニア、スコットランド、リトアニアと続く来年5月末までの予選前半戦で、イングランドがロシア行きに致命的なダメージを負うとは考え難い。

今回こそが、ベンゲル招聘の最初で最後のチャンス。

 もちろん、ベンゲルがアーセナルと新契約する線もないわけではない。黒星発進から立ち直ったチームは、10月2日の7節バーンリー戦(1−0)でリーグ戦5連勝。指揮官は9月の時点で「我々は優勝候補の一員」と、今季の先行きに自信を覗かせている。

 それでも、3シーズン前に「無冠なら去る」と口にした老将は、現行契約を最後にアーセナルのベンチに別れを告げるように思えてならない。“ベンゲル・ファン”が揃う経営陣は続投を望むのだろうが、当人が変化を望めば素直にその意思を尊重せざるを得ない。

 ベンゲルを信じて止まない多くのアーセナル・サポーターたちも、就任満20年の節目を迎えた今季に成果を残せば、美しい体制変更の潮時と考えるのではないだろうか。CL出場権獲得のみという結果が繰り返された場合、あるいはトップ4漏れという失敗に終わった場合には、年々ファンの中に数を増している「反ベンゲル派」にとっても好都合だ。

 リーグ優勝のない日々に不満を募らせていても、過去の功績の大きさから「クビ」ではなく「身を引いて下さい」と訴える程度に留まっている彼らが、栄えある代表監督の座へと送り出す形でベンゲルの背中を見送ることができるのだから。

 アラダイスの失態で完全に面目を失ったイングランドだが、代わりに現状では最も理想に近い、前監督を凌ぐ適任者を指揮官に迎える千載一遇のチャンスを得たと言える。そして今回こそが、そのベンゲル招聘を実現させる最初で最後の現実的なチャンスだ。

文=山中忍

photograph by Getty Images