ネットでは謝罪したつもりが燃料投下になり、より大炎上するこもある。2つのケースから、食文化に詳しい編集・ライターの松浦達也氏が考えた。

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 ずいぶんと長く引っ張るものだ。例のわさびずしの件やフリーアナウンサーの件に象徴される、「インスタントな正義に乗っかる、加速度的匿名ソーシャルバッシング」である。自身が何者かも、責任の所在も明らかにしない。検証もなしに袋叩きにして、また次の標的を探す。なんという不寛容社会だろうか。

 もっともここまで状況を引っ張っている責任が当事者にあるのもまた事実だ。昨今の騒動では標的になった側には、叩かれても仕方のない明確な落ち度があった。

 外国人客相手に大量のわさびを盛り込んだ”わさびずし”の件は、当初差別疑惑で煙が立ち始めていたところに、店側が「すしに多くのわさびを乗せていた件ですが、こちらはそのような事実がありました。海外から来られたお客様からガリやわさびの増量の要望が非常に多いため事前確認なしにサービスとして提供」と説明したことで大炎上。事実を大筋で認めながらも、悪気がないどころか好意でサービスしていたという主張が強引な裏技だと受け止められ、各所から反感を買ってしまった。

 一方、某アナウンサーの件は、ネットやジャーナリズム、社会のあり方について理解の浅いタレントが、人工透析患者やその関係者の感情を逆なでするような見出しを立てて大炎上。苦しい言い訳を続けた結果、テレビのレギュラー番組などからの降板を余儀なくされてしまった。渦中で発表された、詫び文すら番組のスタッフによる代筆だということを何のてらいもなく告白するあたりにも、どうにもならない不適格感が漂ってしまう。

 両者に共通するのは「事実としての落ち度」と、それと相反するような「謝罪のつたなさ」だ。サービス業もタレント業も、客と適切な関係を取り結ぶ必要がある。だがこうしたやらかしには、客との「適切な関係」についての思慮が足りない印象がついてまわる。

 例えばタレント業で言えば、今年の夏、三遊亭円楽がおこなった不倫騒動の謝罪・釈明会見は本当に素晴らしかった(というと語弊があるが)。「聞かれたことにはすべて答える」と冒頭に述べ、実際にすべての質問を受けつけ、「初高座の頃は、『芸人は女性にモテるくらいでないと』とよく言われたものですが、時代錯誤だったと痛感しております。皆様に不快な思いをさせたならば、高座でお返ししたい」と涙ながらに詫びた。かと思えば、同日に復帰会見を行ったベッキーのコメントを拝借したり、記者からの求めに応じて謎かけを披露したり。終わってみれば和やかムードの爆笑記者会見となり、「高座のよう」とも評された。周囲や家族のサポートがあってこそだろうが、それにしてもお見事。噺家としての面目躍如である。

 サービス業で言うと、ちょうど1年前、本コラムで「聴導犬拒否騒動 他者に対する不寛容な社会の空気が気になる」という記事を書いた。百貨店で行われた補助犬の啓発イベントの直後、イベント参加者が同百貨店内のテナント飲食店から聴導犬との同伴入店を拒否された騒動について書いたものだ。

 その後、百貨店は入店を拒否されたイベント参加者に謝罪。各テナントにも補助犬受け入れ指導を徹底し、店頭にも補助犬受け入れを示すステッカーを貼るなどしたという。今後どこまで徹底されるかが重要ではあるが、百貨店として客に対して適切な対応をしたと考えていいだろう。

 よくも悪くも、揺り戻しは必ず起きる。例のすし店での”わさびずし”は日本人客相手にも提供されていたとか、2008年に観光庁が発表した外国人客への対応マニュアル内に、中国人客には練りわさびの多め提供を推奨する一文があるとかいう話が掘り起こされたりもしている。某アナウンサーにもタレント仲間からの擁護の声が上がったりもしているという。

 だが節目にくさびを打ちこむことができるのは、騒動を起こした当事者しかいない。前述した噺家や百貨店は、当事者としてそれぞれの”客”に対して誠実な説明と謝罪を行ったからこそ、いまがある。いつまでも騒動がくすぶっているとしたら、それは適切な謝罪ができていないと捉えたほうがいいのではないか。どんなに嘆いても、不寛容な社会がすぐに変質するわけではない。

 確かに「人の噂も七十五日」ではあるし、こうした話題は早晩消費される。だが消費された後、騒動の詳細は忘れられても、印象は意外と残ってしまうものだ。鼻にツーンと抜けた鮮烈なわさびの痛みのように。