今月3日は、中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利71周年記念日だった。この日を、中国人だけでなく、日本の良識ある若者も忘れていない。1872年に創刊した日本紙「毎日新聞」は1989年、学生団体「キャンパる」編集部を設置し、翌90年から毎年8月に「戦争と平和を考える」企画を掲載している。これまで四半世紀に渡って、学生記者が戦争について考える記事を掲載してきた。香港紙・文匯報が伝えた。

■テーマについて話し合う「戦争を考える」取材班
今年6月のある火曜日の夕方、梅雨入りしたばかりでじめじめした天候の中、東京千代田区一ツ橋にある毎日新聞本社の会議室では、首都圏の大学から来た大学生約30人が集まっていた。これらの大学生たちが、「キャンパる」編集部の学生記者で、週に一回、編集会議を行っている。90年から、毎年8月には「戦争と平和を考える」企画を掲載している。

今年は8月5日に、「戦争を考える/上『悲惨さ後世に伝える』」が掲載。「戦争を考える」取材班の取材を受けた元従軍看護婦の肥後喜久恵さん(92)が、敗戦後、中国共産党の軍隊である八路軍の総司令部衛生課で負傷者の看護をさせられ、帰国後は中国帰りという理由で思想が偏っていると思われ、どの病院も雇ってくれなかったことを語っている。

また、元海軍特別少年志願兵の足羽俊夫さん(85)は、旧日本軍から「国のため」と、人間魚雷の特攻基地になる横穴トンネル掘りをさせられ、「なぜそんな無謀な作戦を立てたのか」と感じたこと、戦後は絵を描く道を選び、今もフランスを拠点に世界で活躍していることなどを語っている。

8月19日には、「戦争を考える/中 多くの菓子職人、海に消え 沈没の給糧艦『間宮』元乗組員ら証言」が掲載。太平洋戦争中に長年に渡って戦地に日本の高品質の菓子を届け、後に米潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没した「間宮」に搭乗していた乗松金一さん(89)は、兵士ではないにもかかわらず、軍国主義の犠牲となった菓子職人の経験を語っている。また、学生記者の原子奈津実さんが、今年5月に亡くなった曽祖母・小泉ツソさん(101)が生前大事に持っていた手提げの中から、28歳の時に戦死した夫、つまり原子さんの曽祖父の最期が書かれた手紙が出てきたことも語っている。祖母、原子レイ子さん(79)は、「母さんは、生きている間全く父さんの話をしなかった。やっぱりつらい思い出があったんだろうね」と語る。

8月26日には、「戦争を考える/下 特攻隊慰問、今も脳裏に 宝塚歌劇団で1943年初舞台」が掲載。戦中から戦後にかけて宝塚歌劇団で花組副組長員として活躍した竹林ヨシミさん(89)が太平洋戦争中の苦労を語っている。竹林さんは、実際に特攻隊の人たちを見送っており、「特攻隊院はみんな姿勢よく劇を見て、終わると敬礼し、飛行機に乗っていった。行ったら二度と帰ってこられない」と当時の状況を説明した。また、若者が軍国主義の教育によって、「正義のためなら」という理由で命も惜しまないと考えるようになり、帰らぬ人になっていったことに心を痛めた。

慶応大学で長年、法律学の教授を務めた金子芳雄さん(91)も、戦争中は海軍兵学校に在学し、特攻兵器の人間魚雷「回天」の搭乗員になることを志していた。しかし、「終戦を迎えてすぐに、民主主義や平和主義が大切であると痛感した。戦争の責任を果たすためにも行政の面から新しい国を造りたいと思い、行政法を究め、教壇に立ってきた」と語っている。

曽祖父、曽祖母の戦争体験を語った原子奈津実さんは取材に対して、「今年5月に101歳だった曽祖母が亡くなるまでは、戦争はとても遠いことで、戦争に関する取材に参加することには興味がなかった。曽祖父と同じ隊に所属していた友人が、中国から送ってきてくれた曽祖父の最期が書かれた手紙が出てきて、初めて戦争に対する実感がわいた」と話す。原子さんは、曽祖母が生前、曽祖父が従軍記者として戦場で亡くなったことを誰にも話したことがないことに驚きを隠せなかった。

「曽祖母は28歳の時にその手紙を受け取ったにもかかわらず、自分の娘にも全く話さず、夜中にこっそりとそれを読んでいたのかと思うと、涙が止まらなくなる」と原子さん。さらに、「この記事を通して、私と同じく戦争が遠いことと感じている人に、もしかすると歴史の記憶が自分のすぐ近くにあるかもしれないということを実感してもらいたい。また、このような悲しい戦争の記憶には敵も味方もなく、多くの国の何億という家庭に存在している。戦争の記憶をたくさんの人に語り続けている人が抱いている張り裂けそうな思いは、私たちには想像もつかない。そのような人は、私たちのような戦争を知らない世代の人が平和の意味を理解するように警告してくれている」と語った。

■「学生記者自身が情報源」
内山勢さんは2010年4月から6年間、第10代編集長として活躍している。そんな内山さんは、「最初、みんな学生が取材してまとめた記事には懐疑的な見方を持っていたものの、実際にやってみると、そのような見方が間違っていることに気付く。他の人からニュースを見つけて記事にするのが記者であり、『キャンパる』の学生記者自身も、立派な情報源だ。学生でも上手に取材できるだけでなく、彼ら自身が大学生活において感じることなどもニュースの素材になることが少しずつ分かってきた。他の人を取材してニュースにするのが新聞社で、自分を素材としてニュースにすることはほとんどない。しかし、学生記者は内部から声を上げることができ、これが大切な点である」との見方を示した。

内山さんの仕事は、学生記者が見落としている事や記事の方向性をチェックすることで、主役はやはり学生記者自身だという。内山さんが最も感心しているのは、新聞社が学生記者の取材費用を負担することはないにもかかわらず、テーマによっては学生らが北は北海道から南は沖縄まで自費で足を運ぶことだ。今年、フランスに住んでいる足羽俊夫さんの取材は、学習院大学文学部哲学科の3年川田璃子さんが国際電話を通して行った。

26年前、「戦争と平和を考える」企画に参加した初代学生記者で、図書編集者の向笠修司さんはもうすぐ50代を迎え、近年と初期の同企画の違いについて、「今の学生記者は、私たちが受動的に座談会を行っていたのとは違い、積極的な姿勢で戦争経験者と対談することができている。戦争経験者の生きた話を通して、日本が起こした戦争の罪や戦争の悲惨さに関する真実を後世に伝えることができ、戦争を経験したことがない若者に反省を促している」と話す。

学生記者たちは四半世紀に渡って、少しずつ風化している戦争の記憶を後世に伝えてきた。このような姿勢こそが、一部の良識ある、平和を愛する人の心を動かすことだろう。(提供/人民網日本語版・編集KN)