学校の推薦図書などでオススメされた日本の近代文学。いざ、読んでみようとチャレンジしても、マンガと違って難解だし、なかなかその楽しみ方がわからず毎回挫折を繰り返すばかり。物語の登場人物がとった謎の行動の意味や、会話の裏に隠された真意がわからず、読後もなんだかモヤモヤする…なんて人も多いのではないでしょうか。

けれど、コツさえ分かれば、実は難解ではないのだそう。今回、大手進学塾で教鞭をとり、教材制作にも携わる国語教師の西原大祐氏に、「有名すぎる文学作品」の「読み解き方」を解説してもらいました。作品の中に込められたテーマを知れば、ビジネスのシーンや生きていく上で一度は直面する数々の悩みと向きあうヒントを得られるのが、文学作品の素晴らしいところ。文学作品の本当の楽しみ方を知り、その世界観にどっぷり浸ってみるのはいかがでしょう。

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現実離脱を試みる、「錯覚」という方法

たとえば、「錯覚」という視点から読み解ける物語をとりあげてみましょう。高校の教科書へも掲載されている、梶井基次郎『檸檬』です。

自分の置かれている現状に対する「えたいの知れない」あせりや不安を抱えることはありませんか?あせりや不安は、ときに精神を追い込むことがあります。ここから逃げ出したい、目の前のものから目を背けたい、という思いはありながらも、生活を改めることはなかなか容易なことではありません。

これから先も、自分の進むべき道を決めていかなければならない。選択の仕方で、その後の人生に大きな影響を与えることにもなりかねません。先行きのわからない将来への不安。

私たち同様にはっきりしない不安を抱えた人物がいます。それは、梶井基次郎の処女作『檸檬』の中の「私」です。

作中の「私」は、街をさまよいながら「みすぼらしく美しいもの」に強く引きつけられます。そして「行為」ではなく「錯覚」という方法で、現実離脱を試みました。それは現実のなかに生活をしつつ、心理的に現実を越えていくことでした。

セオリーは、小説のタイトルが象徴する変化を読み取ること
<あらすじ>

主人公の「私」は、「えたいの知れない不吉な塊」に、悩まされています。なかなか思い通りにならず、焦っていらいらしています。そうして、周囲に対して憎しみの気持ちを抱いています。

あるとき「私」は、ふらふらと当てもなく京都の街をさまよい歩きます。そこで「みすぼらしくて美しいもの」に強く心を引きつけられるのです。それは「壊れかかった街」の「裏通り」にある「向日葵」…。そのとき京都にいながら、心は「仙台とか長崎とか」の「旅館の一室」にあるのです。

<読み取り方>

このように「私」は、具体的な行動ではなく「錯覚を利用した解決」をはかります。周囲の「錯覚」は、そんな「私」を慰めてくれるのです。

いつもの街にいながら、誰も知り合いのいない街を歩いている気分。現実の世界にいながら、非現実の世界を想ったり、実際には存在しないものが存在しているかのように想うとき、今ある現実がなかなか受け入れられず、現実から離脱したくなるのでしょう。

<あらすじ>

かつての「私」は、書店「丸善」が好きな場所でした。しかし、今の「私」の心には、「豪華で美しいもの」に見えます。その豪華さはただただ派手なだけで、みずからを脅迫するかのようです。

ある日、独りぼっちになった時間がありました。相変わらず近所を歩いていたのですが、果物屋の前でふと立ち止まります。夜は、周囲の真っ暗な町並みの中で、そこだけが裸電球に照らされ浮かび上がっています。果物屋は、「私」の求める「みすぼらしくて美しいもの」の一つとしてあったのです。

その日私はいつになくその店で買い物をした。というのはその店には珍しい檸檬が出ていたのだ。檸檬などごくありふれている。がその店というのもみすぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋にすぎなかったので、それまであまり見かけたことはなかった。いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵の具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の格好も。――結局私はそれを一つだけ買うことにした。


<読み取り方>

この作品のタイトルである「檸檬」はここで登場します。

小説のタイトルは、物語全体を象徴します。そして物語の主要な部分で登場し、重要な働きをします。その様子の変化が、人物の心情の変化を表しています。これは、小説を読むときのセオリーとして知っておくと便利です。

このときはまだ、檸檬の「色と形」しか描写されていません。でも、この檸檬は一個で十分に美しさを形成しています。「えたいの知れない不吉な塊」に対して、檸檬は単純ながらにして、美しい。「憂鬱さ」の対極にあったものは、果物屋や檸檬の「美しさ」だったのです。

「私」の不安な心は重く垂れ込めていました。それが、たった一個の檸檬で解消されるはずがありません。

――常識では。

心が乱れた状態を説明するために、乱れた話し方になっている
<あらすじ>

しかし、常識に反することが起こってしまいます。

それにしても心というやつは何という不可思議なやつだろう。


てのひらからしみ通ってくる檸檬の冷たさ。そして、産地カリフォルニアを想像させるほどの香り。先ほどの色や形といった視覚に加え、触覚や嗅覚が加わります。

檸檬と一体になることに成功した「私」の満足感。そんな感覚への刺激が、一つの答へと導き、こうつぶやきます。

――つまりはこの重さなんだな――


「私」は、少しおどけた気分になります。そして、そんな自分が理屈抜きに幸せなのだと感じます。

――何がさて私は幸福だったのだ。


<読み取り方>

「この重さ」とは何でしょうか?

それは、「私」を今まで押さえつけていた「えたいの知れない不吉な塊」である憂鬱さと、突然現れた「美しいもの」である檸檬のことです。この二つの重さが同じだというのです。

つまり、この檸檬の美しさは、憂鬱さと交換が可能なのです。

「私」は感覚的に、常識ではとても理解できない心の揺さぶりを自覚しています。そんな心の持つ不可思議さを実感せずには居られなくなっています。さらに、心のうちが次のことばで表現されています。

――何がさて私は幸福だったのだ。


何はともあれ「私」は幸福だった、という意味です。「私」が説明されていますが、ここでは少々文法的には成り立たない表現になっています。心が乱れた状態を説明するために、乱れた話し方になっているんですね。もう論理性を超越して、無条件で檸檬を受け入れている様子が表されています。やはりここでも、錯覚が作用しているようです。

「重さ」の表す意味、「色彩、美しさ」の表す意味
<あらすじ>

調子を得た「私」は、さらに歩き続けます。そこで見えてきたのが、かつて好きだった場所「丸善」です。落ち込んでいたときに、「私」を脅迫していたあの場所です。しかしそこで、店内に入っていくことを決意します。今の幸福がまちがいないものであるかどうかを確かめに行くのです。

今日なら、きっと今日なら、昔のように――


――と想ったのもつかの間、またもや憂鬱が立ちこめてきます。「不吉な塊」が「丸善」のために再び心を抑えはじめたのです。しかし「私」は、いや、これは歩き疲れたためではないかと考えます。

そうして画集の棚の前に行き、一冊ずつ重い本を取り出します。開いてみるのですが、しっかりと見る意欲がわきません。

しかし、意思とは無関係に一冊、また次の一冊と取り出します。バラバラとめくっては以前の場所に戻すことなく、うずたかく積んでいきます。積み上げられた画集を見ながら、ふと、あるアイディアを思いつきました。

もっと高くさまざまな色彩の本を積みあげてみてはどうだろうか? 「城」をつくるかのように、手当たり次第に本を重ねてみてはどうだろうか? そして、その上にあの檸檬をのせてみてはどうだろうか?

――そして、ついに「城」は完成しました。


本の頂上にある檸檬の色は、本のさまざまな色彩をひっそりと吸い込んだのでした。

<読み取り方>

残念ながら、「私」の幸福は長くは続かなかったようです。

最初、疲労に原因を求めていますが、これは心に闇を抱えるヒトらしい心理とも言えます。もちろんこれは「私」の思い違いですね。

この画集の重さは、憂鬱さと交換できる重さではなかったわけです。檸檬には成り代わらないという意味ですね。それはまさに、「丸善」にただよう憂鬱な空気を、この檸檬が解決してくれたかのようです。やはり、檸檬の「美しさ」は、憂鬱さと対等な力関係であることがわかりますね。

しかし、「城」を造ることで、思わぬ方向に物語は展開します。そして、「私」のアイディアは、みごと成功を収めたのです。ただ、こうなった「私」はまだまだ攻撃の手をゆるめません。

想像上のテロリスト
<あらすじ>

思いがけず、第二のアイディアが浮かんでしまいます。

――それをそのままにしておいて私は、何食わぬ顔をして外へ出る。


「私」は、「変にくすぐったい気持ち」を抑えながら、ポーカーフェイスのまま「丸善」を出て行きます。ふたたび街に出た「私」は、やっとここで微笑みの表情を浮かべます。

変にくすぐったい気持ちが街の上の私をほほえませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいだろう。

私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も木っ端みじんだろう。」


<読み取り方>

それは、自分でさえも動揺してしまうたくらみです。まさに「心というやつは何という不可思議なやつだろう」です。そして外に出たことで、今まで不安にさいなまれ当てもなくさまよい歩いて街は、まったく違う景色に見えたことでしょう。

「私」を微笑ませた「変にくすぐったい気持ち」とは、何なのでしょうか?

それは第二のアイディアによって生み出された、心の躍るような想像です。もちろん「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」とは檸檬のことです。その檸檬が、「私」の憂鬱のシンボルのような「丸善」を破壊するというのです。

たしかあの檸檬には、「私」の抱えてきた「えたいの知れない不吉な塊」と同等の重さがありました。また檸檬には、「丸善」にただよう憂鬱な空気を吸い込むような力もありました。それを「悪漢」となって、「丸善」に「爆弾」を仕掛けることで、今を破壊するのです。「私」は、その後の「丸善」を想像し、微笑んでいたということになります。

まさに「想像上のテロリスト」です。

やはり今回も、みずからの具体的な行動ではなく、錯覚を利用しました。「私」は何度落ち込んでも、ふたたび起き上がってきました。例えそれが一瞬の喜びであったとしても、それをその都度味わい楽しんできました。そこに、自分だけの幸せがあって、自分なりの意味があるのでしょう。他人からの評価が重要というわけではなさそうですね。

まとめ

ところで、最初の「えたいの知れない不吉な塊」とは、いったい何だったのでしょうか?この作品の中で、それが語られることはありません。

ヒトは、誰しも多くの悩みを抱えながら生きています。悩みのないヒトはいません。楽しそうにしているヒトも、見えないところでそのヒトにしかわからない悩みをかかえているのです。

そう、悩みはそのヒトにしかわからないのです。

100人いれば、100種類の悩みがあるのでしょう。何だかよくわからないんだけど、ばくぜんとした不安。それがはっきりしないから、どうしたらいいのかもよくわからない。本人が、悩みの核心と対策をはっきりと認識できないから、つらいのです。

この物語は、悩みの核心に触れることが本質ではありません。悩んで不安なとき、具体的な対策に移せないことがあります。しかし、今よりよくありたいと希望を持ち続けること。「闇」から「光」を求めることにこそ、価値があるのですね。

文・西原大祐

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有名進学塾国語教師
大学時代から日本文学を専攻するかたわら、大手進学塾「栄光ゼミナール」で国語教師として最難関中学受験を担当。開成や桜蔭をはじめとする御三家中学への合格者は200名以上。現在、会員制難関受験専門塾「elio」の国語科責任者として活躍しながら、神奈川県内の高校では現代文・古典の大学受験指導もおこなっている。受験合格をゴールと設定するのではなく、社会に出ても生きる「本当の国語力」をはぐくむ指導には定評がある。また、「Mothers」の代表を務め、「文学としての国語」を研究しながら、講演・執筆・教材制作をおこなっている。


檸檬・冬の日―他九篇(岩波文庫)

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作者:梶井基次郎
出版社:岩波書店


協力:honto

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