〈汝、忠(まめ)にして且勇(またいさみ)あり。加能(またよ)く導の功有り。是を以ちて、汝が名を改め道臣(みちのおみ)と為(せ)む〉

 熊野上陸後、日臣命(ひのおみのみこと)はカムヤマトイハレビコノミコト(神武天皇)一行の先頭に立って道を切り開いた。その功績をイハレビコはたたえ、道臣命(みちのおみのみこと)の名を与えた、と日本書紀は記す。

 〈大伴連等が祖(おや)道臣命〉

 古事記はそう書く。古事記で初めて、その名が出るのは大和・宇陀で兄宇迦斯(えうかし)の罠(わな)を見破り、イハレビコの危機を救ったときである。その後も八十梟帥(やそたける)を討つなど武功を重ね、軍旅の途中で神を祭る斎主の役割も命じられ、「厳媛(いつひめ)」という名を与えられた、と書紀は記す。

 「祭祀(さいし)での役割も与えられていますから、単なる将軍ではなく、呪術的な力を持った導き手だったのでしょう」

 道臣命を祭る刺田比古(さすたひこ)神社(和歌山市片岡町)の禰宜(ねぎ)、岡本和宜氏はそう話す。同神社は、大和朝廷の有力豪族だった大伴氏が拠点とした地に建つ。周辺は古代、島だったとみられるほか、ご神体は船の形をしている。岡本氏は、道臣命は紀の川沿いを勢力下に置き、イハレビコが来たときに下った、と考えている。

 「海上交通にも詳しく、案内役としても適任だったのでしょう」

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 社伝などでは、道臣命の父は刺田比古命(さすたひこのみこと)。さらにさかのぼると、天孫降臨の際にニニギノミコトの先導役を果たした天忍日命(あめのおしひのみこと)に至る。大刀を帯びて弓を持ち、真鹿児矢(まかごや)を脇腹に挟んだ武装姿で、天津久米命(あまつくめのみこと)とともに先頭に立った、と古事記が記す神である。

 〈其の天忍日命、此は大伴連等が祖〉

 古事記は、天孫降臨の場面でもそう書いている。度々登場する大伴連という名前。そして、天孫降臨と重なる道臣命の活躍は何を示すのか。

 「天上界と地上界の間を埋めるのが天孫降臨。その場面で重責を果たした神の子孫が、東征でも同じような構図で登場する。大和朝廷を守る軍事的な集団を統率していた大伴氏らの功績を強調する必要があったのでしょう」

 大阪市立大の毛利正守名誉教授はそう推測する。

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 〈天皇、功を定め賞を行ひたまふ。道臣命に宅地を賜ひ、築坂邑(つきさかのむら)に居(はべ)らしめ、以ちて寵異(ことにめぐ)みたまふ〉

 日本書紀は、即位後の天皇が真っ先に道臣命の功に報い、そして寵愛(ちょうあい)した、と書く。「名前の順が功績の順と考えて良いでしょう」と毛利名誉教授は言う。

 「東征は道臣命抜きには考えられず、天皇は大和平定後もそばに置いた。書紀は、そうした事情をうかがわせます」

 江戸時代後期から刊行され、皇族や忠臣などを紹介した『前賢故実』という伝記集がある。そこでは東征に功績があった存在として、五瀬命(いつせのみこと)の次に道臣命が登場する。五瀬命は畿内まで弟イハレビコを支え、敵の矢に当たって落命した長兄である。

 「道臣命は忠臣の象徴だったと言っていいのでは」。岡本氏はそう話す。

     =次回(5)は24日に掲載

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【用語解説】刺田比古神社

 道臣命と大伴佐●比古命(おおとものさでひこのみこと。●=砥の石を削除)が祭神で、和歌山城の氏神。大伴氏によって創建されたと伝わり、45代聖武天皇による紀伊御幸の際の離宮になったともいわれる。豊臣秀吉が和歌山城を築くにあたっては本城鎮護の神として尊んだ。

 徳川8代将軍・吉宗の拾い親の逸話でも知られる。厄を払うために吉宗は一度捨てられ、同神社の宮司だった岡本長諄(ながあきら)が拾ったことから、吉宗はその後も同神社を崇敬した。出世開運、厄除けの神社として知られるほか、道臣命の活躍で交通安全祈願の神社ともされる。

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【用語解説】交声曲「海道東征」

 詩人・北原白秋(きたはら・はくしゅう)が記紀の記述を基に作詩し、日本洋楽の礎を作った信時潔(のぶとき・きよし)が作曲した日本初のカンタータ(交声曲)。国生み神話から神武東征までを8章で描いている。

 皇紀2600年奉祝事業のために書かれ、戦前は全国で上演されて人気を集めたが、戦後はほとんど上演されなくなった。昨秋、大阪フィルハーモニー交響楽団の雄壮な演奏で復活上演され、大きな反響を呼んだ。今年も10月3日に再演される。

 白秋の詩は、記紀の古代歌謡や万葉集の様式を模して懐古的な味わいがあり、信時の曲は簡潔にして雄大と評される。