慶応3(1867)年11月15日に暗殺された坂本龍馬が亡くなる5日前に書いた手紙が見つかり、高知県が13日、発表した。越前藩の重臣宛てで、新政府設立に向けた人材の派遣を求める内容。「新国家」という言葉を使って説得するなど、龍馬が新政府設立の根回しに奔走した姿がうかがえる貴重な史料という。

 幕末関連の歴史史料を探していた県が見つけ、京都国立博物館などが筆跡や内容などから龍馬のものと断定した。

 「一筆啓上仕候」で始まる手紙(縦16センチ、横92センチ)は11月10日の日付でその下に「龍馬」の署名もあり、大政奉還後の新政府の財政担当者として、越前藩士、三岡八郎(後の由利公正)を差し出してほしいと、同藩の重臣・中根雪江に懇願する内容。三岡の派遣について「急を要すること」とし「三岡の上京が一日先になったら新国家の家計(財政)の成立が一日先になってしまう」と訴えていた。

 当時、龍馬は暗殺された京都の近江屋に滞在しており、手紙はここで書き上げ、使いの者が京都・二条城近くにあった越前藩邸を訪れていた中根に届けたとみられる。

 三岡は明治天皇が新政府の基本姿勢を示した「五箇条の御誓文」の起草に参画したことで知られており、財政政策にも携わるなど、新政府を支える人物となった。

 龍馬は手紙を出す約1週間前、福井を訪れて中根に三岡の派遣を要請したが、前向きな返事をもらえなかったため、念押しの意味で、その後京都入りした中根に手紙を送ったとみられる。しかし、越前藩は、すぐに行動を起こさず、三岡の上京が実現したのは龍馬暗殺の1カ月後だった。その後、龍馬の手紙の封紙には、朱書きで「人に見せてはいけない」などとする付箋がつけられていた。

 龍馬の手紙に詳しい京都国立博物館の宮川禎一・列品管理室長は「三岡の高い能力を見抜いていた龍馬の先見性を示す」とした上で、「『新国家』という表現は、他の手紙で見たことはなく、龍馬の国づくりにかける熱い思いを表すものだ」と話している。

 坂本龍馬の書状の現代語訳は次の通り。

 一筆啓上差し上げます。

 このたび、越前の老侯(松平春嶽)がご上京になられたことは、千万の兵を得たような心持ちでございます。

 先生(中根雪江)にも、諸事ご尽力くださったこととお察し申し上げます。

 しかしながら、先頃直接申し上げておきました三岡八郎兄の上京、出仕の一件は急を要する事と思っておりますので、なにとぞ早々に(藩の)ご裁可が下りますよう願い奉ります。三岡兄の上京が一日先になったならば新国家の家計(財政)の成立が一日先になってしまうと考えられます。

 ただ、ここのところにひたすらご尽力をお願いいたします。

       誠恐謹言

十一月十日

         龍馬

中根先生

   左右

追白

 今日永井玄蕃頭(幕臣・永井尚志)方へ訪ねていったのですが、面会はかないませんでした。

 談じたい天下の議論が数々あり、明日また訪ねたいと考えているところですので、大兄もご同行がかないますならば実に大幸に存じます。

         再拝

 佛教大の青山忠正教授(明治維新史)の話「掛け軸や巻物などに加工されず、全くオリジナルな状態で保存されていたのには驚いた。当時、手紙は回覧されることが多かったため、丁寧な筆致、文体で書かれており、宛先の中根雪江だけでなく、藩主の松平春嶽や他の重臣にも読まれることを想定して書いたのだろう。文中の『新国家』はどのような意味で使ったのか、今後の研究が期待される。今日的な国家という意味に近ければ、当時の言葉では『天下』と書いただろう。『新たな主君』や『天皇』を意味した可能性もある」

 坂本龍馬 高知城下で土佐藩郷士の家に生まれる。江戸に出て北辰一刀流を学んだ後、故郷に戻って尊皇攘夷を掲げた土佐勤王党に参加。その後に脱藩し、討幕運動に携わった。この間に幕臣の勝海舟や長州藩の木戸孝允、薩摩藩の西郷隆盛らと交流。日本最初の商社と言われ、後に海援隊となる亀山社中を結成し、薩長同盟や大政奉還の実現に尽力した。宿泊していた京都の近江屋で、盟友の中岡慎太郎らといたところを襲撃され、暗殺された。