監督の本分とは、なんぞや?
 
 選手たちに日々の練習を行なわせ、その集中力を高め、競争力を上げ、試合に臨み、修正を加え、再び戦いに挑む。
 
 試合に勝つにはトレーニングの部分が肝であるわけだが、「勝利のレシピ」があるわけではないから、決して簡単ではない。
 
「試合だけでなく、練習も見に来てほしい。自分たちの努力も伝わるはずだから」
 
 こんな表現をするサッカー監督がいるし、実際に聞いたこともある。スタッフのなかにも、こういう考え方の人は少なからずいるだろう。
 
「練習も見ないで、批判するのは勘弁してほしい」という反発が、発言の裏には見える。努力している姿を見たら、辛辣には報道できないと――。
 
 しかし、こうした考え方はまったく的外れである。心情的には理解できるが、甘えも甚だしい。
 
 トレーニングを積むことで試合に挑む。言い換えれば、試合が監督の「作品」披露となる。当然ながら、その作品で全てを語るべきだろう。
 
 例えば、小説家が物語を紡ぐのに、どれだけ苦労し、時間を要したか、そんなことは知ったことではない。料理人にとっての料理、映画監督にとっての映画、画家にとっての絵画。プロは生み出した「作品」だけで評価を受ける。
 
 それは、社会人、あるいは学生だって同じかもしれない。
 
「練習の努力を見てくれ!」
 
 入場料を取り、放映権を売るプロが、そんな甘ったれたことをどうして口にできるのだろうか?
 
 もっとも、筆者は「監督を結果云々だけで論じるべきではない」と考えている。サッカーには必ず勝ち負けがあり、結果だけで語ることは本質を見失うことになるからだ。
 
 しかし、試合こそが「作品」である。その事実は揺るがない。チームとして目指すべき方向性が見えず、選手の距離感がばらばらでサポートもないという状況では、監督の未来はないだろう。
 
「練習ではできていた」などという弁解には意味がない。それが厳しいプロの世界なのである。
 
 だからこそ、監督は尊敬されるべき稼業だとも言える。
 
 自分を律しながら、集団を率いなければならない。敗戦のショックで立ち直れず、ベンチで呆然とするような甘ったれは監督をやるべきではないだろう。たくさんの選手を、スタッフを不幸にする可能性がある。
 監督は集団を率いる唯一無二のリーダーであり、気落ちしたような表情を見せてはならない。なぜなら、その波動は選手全員に伝わるからだ。
 
 監督には、勝者としてのメンタリティーを選手たちに移植できるような図太さが必要になるだろう。少なくとも、敗戦の悲しみや苛立ちや悔しさを“だだ漏れ”させるような弱者は、監督をする資格はない。感情を隠せるような“ずるさ”がないと、やり抜けないのだ。
 
 1試合という作品に全てを懸ける――。
 
 アトレティコ・マドリーのディエゴ・シメオネ監督は、その挑み方に決意を感じさせる。次の試合は存在しない。目の前のことに全てを出し尽くす。その決死の覚悟を、チーム全体に伝播させるのだ。
 
 日本人では、川崎フロンターレの風間八宏監督も自らの理念に忠実で、断固としたものがある。大久保嘉人や三好康児のように年齢にかかわらず、選手の覚醒の触媒となっている。
 
 自信に溢れたロジックが、覇気を触発するのだろう。アディショナルタイムまで2-0とリードしながら追いつかれ、その後で3-2で勝った9月25日の横浜F・マリノス戦のように、チームとして不安定なところはあるが、作品としての面白味が感じられる。
 
 監督の仕事は簡単ではない。週末のゲームでうまくいかなかったら、1週間の仕事が台無しになった気分になる。しかし自戒しながら、続けるしかない。
 
 そんな厳しい職務に真正面から向き合うからこそ、欧州や南米の監督は「ミスター」という敬称で呼ばれるのである。
 
文:小宮 良之
 
【著者プロフィール】
こみや・よしゆき/1972年、横浜市生まれ。大学在学中にスペインのサラマンカ大に留学。2001年にバルセロナへ渡りジャーナリストに。選手のみならず、サッカーに全てを注ぐ男の生き様を数多く描写する。『おれは最後に笑う』(東邦出版)など多数の書籍を出版しており、2016年2月にはヘスス・スアレス氏との共著『「戦術」への挑戦状 フットボールなで斬り論』(東邦出版)を上梓した。