川口能活、41歳。彼のサッカー人生は、言い換えれば、日本代表の“世界挑戦”の歴史と重ね合わせることができる。絶対に負けられない戦いのなかで、彼はどんなことを考えていたのか。「川口能活クロニクル」と題した、日本サッカー界のレジェンドが振り返る名勝負の知られざる舞台裏――。
 
第4回:1998年フランスW杯アジア最終予選・第5戦
        日本 vs ウズベキスタン
 
■サッカー人生でもっとも“アウェー”を感じた試合
 
 1997年10月11日。タシケントで行なわれたフランスワールドカップ・アジア最終予選第5戦のウズベキスタン戦は、僕のサッカー人生のなかでもっともアウェーのプレッシャーを感じた試合でした。
 
 前回のコラムで紹介した2004年のアジアカップの中国大会もブーイングは凄まじいものがありましたが、あれは反日感情によるもの。ウズベキスタン戦ではスタジアムに訪れた5万人のサポーターによるブーイングは凄まじいものがありましたが、それに加えて、僕の平常心を揺るがしていたのは、初のワールドカップ出場を目指していた日本代表が窮地に陥っていたからでしょう。
 
 1週間前のカザフスタン戦後、日本の指揮官、加茂(周)さんが突然解任され、コーチの岡田(武史)さんが昇格したのです。
 
 加茂監督の更迭は、寝耳に水でした。当時はスマホのない時代でしたから、情報は日本からファックスで送られてくる新聞のコピーが回し読みされていました。その前にスタッフから監督を交代することは直接聞いたのですが、あらためて加茂さんの更迭のニュースを読んで、悔しさがこみ上げてきたのを覚えています。カザフスタン戦を終えて5試合を戦って、加茂さんは最終予選で1敗しかしていませんが、ホームでの韓国戦に敗れただけで更迭されたのです。
 
■加茂さんに恩返ししたい一心だった
 
 振り返れば、最終予選の組み分けが決まったとき、ウズベキスタンは、韓国の次ぎに強いと言われていました。そんなウズベキスタン相手に、初戦で6−3と大量ゴールを奪いました。「これは行ける!」という慢心のようなものが生まれていたのかもしれません。
 
 その後、日本はアウェーでUAEに引き分け、ホームで韓国に敗れました。一方、韓国は無傷の3連勝で勝点9と独走し、UAEが勝点7で続いて、日本は勝点4の3位に。1位通過はおろか、プレーオフ進出となる2位通過すら危うい状況に追い込まれていたのです。
 
 そうしたなかで、加茂さんの更迭が起きてしまったのです。
 
 僕にとって加茂さんは特別な存在です。日本代表に選んでもらったのも、加茂さんですし、ワールドカップ初出場を目指すチームのゴールマウスを守ることができたのも、すべては僕を信頼してくれた加茂さんのおかげでした。だからこそ、加茂さんに恩返ししたい一心で、この最終予選を戦っていたのです。
 
 僕だけではありません。井原(正巳)さん、秋田(豊)さん、モト(山口素弘)さんなど、当時のほとんどのメンバーは、加茂監督が抜擢した選手ばかりでしたから、みんながすごく責任を感じていました。
 
「加茂さんのためにもワールドカップへ行こう!岡田さんを男にしよう!」
 井原さんがそう言って、みんなの気持ちをまたひとつにしてくれました。
■気づいたら泣きながらプレーしていた
 
 岡田監督初采配となったウズベキスタン戦。自力での2位確保のためには全勝が条件となる後半の初戦で、日本は3−5−2のシステムで臨みました。
 
 2トップはカズさんと(城)彰二でしたが、累積警告で出場停止となった小村(徳男)さんの代役には斉藤(俊秀)さんが務めました。トップ下にはヒデ(中田英寿)に代えて、ウズベキスタンの弱点とされていた最終ラインをかき回したいという狙いから、スピードのある森島(寛晃)さんが入りました。
 
 ウズベキスタンは、1か月前に6対3で勝利したとき、それほど怖さを感じなかったのですが、2度目の対戦となったこの日のチームには違っていました。とりわけ、トップ下に入ったカシモフの存在は日本にとって厄介でした。ペースこそ日本が握っていましたが、25分にシャツィフへのスルーパスで決定機を作られるなど、カシモフの頭脳的なゲームメイク力と鋭いスルーパスに、僕たちは苦しみました。
 
 そして31分。日本のリズムが途切れたところで、右CKからカムバラリエフにミドルシュートを決められてしまったのです。防ぎようのない強烈なシュートでしたが、この日は絶対に1点も取られたくないと思っていたので、まさに痛恨の失点でした。
 
 日本は1点をリードされたまま、後半を迎えました。日本は今予選で初めて先制ゴールを許したわけですから、日本にはさらに見えない圧力がのしかかっていました。まだ22歳で若かったこともありますが、日本のゴールマウスを託されていた僕の精神状態も、もはやギリギリの状況でした。
 
 そして今だから言えることなのですが、この試合で、僕は泣きながらプレーしていたのです。ゴールキーパーになって試合中に泣いてプレーするなんて、後にも先にもこの試合だけですが、それくらい言葉では説明できないほどの凄まじいプレッシャーを感じていました。
 
■呂比須のゴールで九死に一生を得る
 
 54分。日本はヒデと呂比須(ワグナー)を同時投入し、3バックから攻撃的な4−3−3にシステム変更しました。攻めるぞという合図でした。もしウズベキスタンにリードを許したら、4バックに切り替えて攻撃的に行くことは、この1週間の練習で確認済みでした。
 
 その後は、攻撃陣が必死になって攻めてはウズベキスタンのカウンターを受ける、といった試合展開でした。日本はミスもあったものの、前へ前へと攻めていきました。カウンターからピンチを迎えることもありましたが、そのたび、僕は井原さんに助けてもらいながら、必死に対応しました。追いつかなければいけない。でも失点してはいけない。ハイプレッシャーのなか、待ちに待った瞬間がついに訪れたのです。
 
 時計の針は45分を指そうとしていました。最終ラインの井原さんがロングフィードを送り、前線の呂比須がヘッドで落とした。そして、呂比須の落としたボールにいち早く反応したのはカズさんでした。
 
 そこで、カズさんの動きに相手ゴールキーパーがつられたのですが、おそらくカズさんがボールに触ると思ったのでしょう。判断に迷いが生まれて、結局、ボールに触れることができずにゴールインしたのです。その瞬間、まさに九死に一生を得たような気持ちになりました。ウズベキスタンのサポーターが静まり返るなか、僕は涙をこらえながらガッツポーズしたのを覚えています。同点ゴールが生まれて、あんなに喜んだことはありませんでしたから。
■井原さんがいなかったら平常心を保てなかった
 
 最終スコアは1対1でした。ただ、カザフスタン戦と同じスコアとはいえ、試合を終えたあと、選手たちはこのドローを前向きに捉えていました。前節のカザウフスタン戦では1対0でリードしていて、2点、3点奪えるチャンスがあったのですが、ロスタイムにカザフスタンに追いつかれたということで、精神的に悔しさが残る試合でした。
 
 しかし、ウズベキスタン戦は逆に敗色濃厚の状況にまで追い込まれているなかで呂比須のヘッドで最後の最後で追いつくことができました。フランスへの望みをつなげてくれた値千金のゴールになりましたから、気持ちとしては、首の皮一枚つながったという印象でした。
 
 僕が泣きながらも最後まで冷静さを保つことができたのは、井原さんのおかげです。22歳の僕にとって、経験豊富な井原さんが最終ラインにいてくれたのは本当に大きかったですね。アドバイスという言葉ではなく、ただ、目の前にいてくれるだけで、本当に心強かったのです。もしあの予選で井原さんがいなかったら、僕は間違いなく平常心を失っていたと思います。
 
 現在、日本代表も最終予選を戦っていますが、これからアウェーでの厳しい戦いが待っていると思います。井原さんがそうであったように、(吉田)麻也や長谷部(誠)がチームを支える存在であってほしいですね。どんなことがあっても動じない。責任を持ってチームを引っ張る。彼らのリーダーシップに期待しながらも、日本代表を応援していきたいと思います。
 
■参考資料
フランスW杯アジア最終予選・第5戦
1997年10月11日17:02@ウズベキスタン・タシケント
日本 1−1 ウズベキスタン
[得点]日=呂比須(89分) ウ=カムバラリエフ(31分)
[警告] 日=井原(2分)、山口(71分)、中西(79分) ウ=カムバラリエフ(20分)、レベデフ(58分)
 
【日本代表】
スターティングメンバー/GK20川口能活、DF4井原正巳、17秋田豊、16斉藤俊秀(53分30呂比須ワグナー)、MF2名良橋、3相馬直樹、6山口素弘、10名波浩(79分28中西永輔)、15森島寛晃(53分8中田英寿)、FW11三浦知良、18城彰二
サブメンバー/GK1小島伸幸、MF12本田泰人、MF15岡野雅行、18柳本啓成
 
■プロフィール
川口能活
かわぐち・よしかつ/1975年8月15日生まれ、静岡県出身。180センチ・77キロ。清水商高卒業後、横浜入り。その後、ポーツマス(イングランド)、ノアシャラン(デンマーク)、磐田、岐阜を経て、現在J3の相模原でプレー。4度のワールドカップ出場を誇る日本を代表するレジェンド。プロ23年目。
 
 
☆SC相模原オフィシャルHPはこちら
→http://www.scsagamihara.com/
☆川口能活選手・直近出場予定ホームゲーム
J3リーグ第26節 vs鹿児島ユナイテッドFC
10月23日(日)13:00キックオフ@相模原ギオンスタジアム