■川崎フロンターレ・中村憲剛インタビュー(前編)

 中村憲剛にとって川崎フロンターレで迎えたプロ14年目は、忘れられない1年になったはずだ。頂点を目前にして無冠に終わった悔しさはありながら、Jリーグアウォーズでは最優秀選手賞を受賞し、まさに2016年シーズンの"顔"となった。

「(最優秀選手賞は)自分以上に周りの人たちが喜んでくれたことと、同業者の人たちに評価してもらえたことがありがたかったですね」

 少し照れくさそうに話すのは、悲願のタイトルを獲得できなかった悔恨の思いが混じっているからだろうか。惜しみない謝辞は、すぐさまチームメイトをはじめとする周囲に向けられた。

「2016年は本当に周囲の成長が著しく、僕自身は自分の仕事に集中できる環境を作ってもらえたからこそ、あれだけの数字(成績)を残すことができた。僕は、ひとりでドリブルしてシュートを決めるような選手じゃない。むしろ、その真逆。周りの選手に生かされて、僕も周りを生かすことで、持ち得る機能性を最大限に発揮させてもらえた。だから、最優秀選手に選ばれたのは、チームメイトやクラブスタッフも含め、フロンターレに関わってくれたすべての人のおかげなんです」

 最優秀選手賞は、1年の活躍が評価されてのものではあるが、中村が示す感謝は、36年に及ぶ彼の人生に関わったすべての人に贈られた言葉でもある。本人は、「数え切れないくらい感謝したい人がいる」と話すが、その中でも彼の分岐点に携わり、未来へと導いてくれた5人の"恩人"を強いて挙げてもらった。

 考えはじめて、すぐに名前が出てきたのが、都立久留米高校時代の恩師・山口隆文監督だった。

「今の中村憲剛の土台を作ってくれた人ですからね」

 そう言って、彼は高校時代に思いを馳(は)せる。

「中学生のときは本当に何もかもうまくいかなくて悶々(もんもん)とした日々を過ごしていたんです。だけど、高校サッカーに憧れていたので思い切ってやりたいなと思って、自分の実力をいろいろと考えて久留米高校に入学しました。僕は、昔から何でもすぐに答えを求めたがる生徒で、少しでも気になることがあると、『これ、どうすればいいんですか?』『あのときはどうしたらよかったんですか?』って、今思えば、自分でも『うるさいヤツだな』って思いますけど(笑)、聞いてしまう習慣があったんですよね」

 久留米高校のサッカー部でプレーするようになってからも、中村はいつものように山口監督に質問した。だが、恩師からの返事は、中村がまったく予想もしていないものだった。

「自分で考えろ」

 中村は「たまたま忙しかったのかもしれないですけどね」と言って笑う。

「ただ、高校入学当時、身長155cmくらいしかなくて、背の小さかった自分が、どうやってプレーしていくかを、そこで考えるようになった。山口先生には『おまえは小さいんだから、とにかく頭を使いなさい、考えてプレーしなさい』って言われました」

 自らを「コンプレックスの塊だった」と話す中村は、考えることで長所を伸ばし、短所を克服していった。「それでも、監督が自分に何を求めて、自分がどうするべきか、方向性を定めたかったので、その後も疑問があれば、遠慮なく聞きにいきましたけどね」と、中村はまた笑ったが、この恩師との出会いが大きく成長するきっかけになったのは言うまでもない。

「当時の自分は、さながら沈没寸前の船のようでした。それが本当にちょっとした運というか、出会いに恵まれて変わった。だから、すべては自分次第。考えてやれば、ここまでいけるんだよ、MVPも獲れるんだよってことを、今、当時の自分と同じ悩みやコンプレックスを抱えてサッカーをしている子どもたちに伝えたい。大事なのは置かれた環境の中で、自分自身がどう取り組んでいくかなんです」

 高校時代にサッカーを、自分自身を諦めなかった中村が、次に名前を挙げたのが、中央大学のときに指導を受けた佐藤健コーチ(当時)だった。

「フロンターレとの架け橋になってくれた人。健さんがいなければ、僕はプロの世界に入っていなかったと思います。大学3年生までの僕は、関東選抜にも選ばれたことがないような選手で、もちろんユニバーシアードの日本代表にも選ばれるようなこともなかったですからね」

 佐藤との出会いもまた、ちょっとした運が重なってのことだった。

 当時の中村は、試合にこそ出場していたが、それほど脚光を浴びるような選手ではなかった。しかも、3年生のときにはチームが関東2部リーグ降格の憂き目にあってしまう。

「自分が最上級生になって、キャプテンになった年に、まさかの大学史上初の2部降格ですからね。自分自身もかなり責任を感じていましたし、サッカー部としても何かを変えなければならないという状況にありました。そのときに来たのが、健さんでした」

 中村が大学4年生になり、佐藤が指導に来るようになると、ある日、面談の場が設けられた。そこで中村は、佐藤にこう問いかけられた。

「おまえはどうしたいんだ?」

 佐藤について、「豪快な人で、とにかくサッカーが好きな人だったので、すぐに信頼できる人だと思った」と印象を語る中村は、だから素直に思いの丈をぶつけることができた。

「就職活動をしないで、とにかくチームを関東1部に昇格させるために、サッカーをがんばります。それと......将来、サッカーでメシを食べていきたいんです」

 中村の瞳の奧に宿る強い意志を感じとった佐藤は、「そうか。わかった」と返事をすると、後日、Jリーグのクラブの練習参加を取り付けてきてくれた。それが"川崎フロンターレ"だった。

「きっと健さんもダメもとで、フロンターレに話をしてくれたんだと思います。『どこにも拾ってもらえなかったら、どこかで働きながらプレーすればいい』って言われていましたから。本当に人生綱渡りですよね。ただ、どうしようもないってときに誰かが助けてくれる。今振り返ってみても、いつ綱が切れてもおかしくなかったと思います。でも、これだけは言える。自分でもバカだなって思うくらい、サッカーが好きだったんですよね、マジで(笑)」

「年の離れた友人みたいなもんです」という佐藤とは、今でも付き合いがある。「自分の活躍は喜んでくれていますけど、恩返ししているつもりはないですね(笑)」と言えるところに、ふたりが積み重ねてきた関係性が滲(にじ)み出ている。

 そんな中村は、「プロになってからも出会ったすべての指導者に感謝している」と話すが、プロサッカー選手として大きな自信を得ることができたのは、この人に出会ったからだ。2006年、中村を初の日本代表へと招集したイビチャ・オシムである。

「それまでの自分は、年代別カテゴリーの代表にすら選ばれたことがなかったので、オシムさんに自分の(サッカー)人生を肯定してもらえた気がしました。それも、あの世界(日本代表として戦うこと)に初めて呼んでくれたのがオシムさんだったことが、ことさらうれしかった。オシムさんに認めてもらえたことは、未だに自分の名誉であり、誇りです」

 さらに饒舌になった中村は、「同じ空気を吸って、同じ考えでサッカーをして、練習や試合ができただけでも、ものすごい価値があった」と、オシム監督と触れ合った日々について回想する。

「みんなは怒られると思っていたのか(笑)、あまり話していませんでしたけど、僕は代表監督の中では一番話をしました。そこは、昔から疑問があれば監督と話してきた経験が生きたかもしれない(笑)。

 オシムさんのサッカーは、その当時、『考えて走るサッカー』と言われていましたが、僕はその"考える"という部分をずっとフォーカスしてきた人間。だから、そのサッカーにも馴染みやすかったですし、練習は難しかったけど、全然苦ではなかった。あのチームは本当にインテリジェンスが高くて、あのサッカーを経験した多くの選手は、今も現役でプレーしている。オシムさんはサッカーの楽しさを教えてくれた人。

 そういう意味では、改めて『自分自身を突き詰めていかなければ』と思い起こさせてくれた風間(八宏)さんにも感謝しなければならない。30歳を過ぎて戦術やシステムばかりに目がいきがちになっていた自分に、『もっと自分自身の技術を高めろ』と言ってくれる人に出会えたんですから」

 サッカーボールを蹴りはじめてから今日に至るまで、出会ってきたすべての指導者たちの言葉が、教えが、中村の今につながっている。そのすべてが彼を成長させてきたからこそ、36歳にしてMVPに輝けたのであろう。

 中村が名前を挙げた残るふたりは指導者ではなかった。ひとりは、中村をチームの象徴となるべく押し上げてくれた人であり、もうひとりは彼自身を最も近くで支えてくれる人である。

(つづく)

原田大輔●取材・文 text by Harada Daisuke
佐野美樹●撮影 photo by Sano Miki