■「J2の味」紀行(3)〜松本山雅

 2016年11月、松本。J2最終節、松本山雅は本拠地のアルウィンで横浜FCに勝ったものの、2位の清水エスパルスとは得失点差による3位となって、昇格プレーオフに回ることになった。

 その翌日。目的の食事処へ向かった。

「今度、松本に来たら案内するよ!」。かつて、そう言われたことがあった。誘導する看板に従い、右折して道に入るも、それらしき建物はない。スマホでアプリを立ち上げ、地図情報を詳細に確認。玄関にお店のネオン灯が置かれた一軒家があった。呼び鈴を鳴らしても誰も出ない。ネオン灯はそっぽを向き、ほこりを被っていた。

「店の看板を見るけどさ、その人たちのことはよく知らないよ」と、通りかかった中年の男性は素っ気なかった。試しに登録されていた電話番号を押すと「現在使われておりません」と冷たいアナウンスが流れた。

 松本で命を燃やした松田直樹の痕跡を辿ろうとしたのだが、行く手はプツリと途切れてしまった。

「昔のことなんて、どうでもいい」。松田はそう言って、賞状やトロフィーなどを側に置かなかった。立ち尽くしたまま、そんなことを思い出した。

 松田が練習中に倒れ、急性心筋梗塞で逝ったのは2011年8月のことだ。すでに5年以上が経過。なにひとつ、変わらないことはない。当時JFLにいた松本はJ2、J1へ昇格。その後は再びJ2へ降格し、そして昨シーズンは再びJ1昇格に挑んでいた。当時から在籍する選手は、飯田真輝、鐵戸裕史、白井裕人の3人のみになっていた。

「松田が山雅の礎(いしずえ)になっている」

 そんな話をしばしば聞くし、記事でも読んだかもしれない。そのメッセージは彼への敬意だろう。しかし当人はどんな気持ちか。礎として土中に埋められ、じっとしているタイプではなかった。風のように自由に生きるほうが性に合っていた。

 様々なものがうつろっていく。時間の流れは誰にも止められない。松田直樹という名も、やがて風化するのだろうか。

 筆者は松田の人生の格闘を描いたルポ『フットボール・ラブ』を書いたとき、「カレーでランチ→カフェで5時間ぶっ通しで喋る」というのが、ひとつのコースだった。その光景の断片は覚えているが、例えば彼がコーヒー党だったか、コーヒーが苦手だったのか、判然としない。それは昔付き合っていた女の子とのデートの風景と似ているか。記憶の風景は薄まり、やがてぼやける。

 しかし詳細は消えても、人間としてぶつかり合ったときの火花のようなものは残っている。むしろ時が経つにつれ、その実感は増す気がする。燃え尽きた者はずるい。

「俺は他人を認めないでここまでやってきた」。松田はそう信条を語っていた。

「練習でも、"今日死んでもいい"というところまで追い込んで、いつも自分に問いかけていた。"今日、グラウンドであなたは一番でしたか?"って。サッカーで妥協はしたくなかった。試合になれば、"ぶっ飛ばしてやる"と相手を睨んだよ。俺にグレーはない。白か黒か、戦いの中でアドレナリンが出てくると、無敵になれた」

 こんなセリフを颯爽と口にできる選手が、いったい何人いるだろうか? その言葉には命のほとばしりがあった。

<松本が逃したJ1昇格。プレーオフをどう戦うべきだったのか?>

 その答えを聞いてみたいが、それはかなわない。松田はこの世にはいないのだ。つくづく、早く逝き過ぎた。

 しかし彼のことだから、「相手をリスペクトして戦え!」なんてことは言わなかったに違いない。松田は勝負においては非情だった。「自分が勝者としてリスペクトされる」という傲岸さで挑んでいた。

「同じポジションの選手に憧れてんなら、サッカー選手なんかやめちまえ!」。松田はそう言って吐き捨てたこともある。彼には白か黒しかなかった。その生き方が小気味よかったのだ。

 いつか、あるいは、すでに、松田は忘れられつつあるのかもしれない。しかし、彼はそんなことに文句を言うほど、器の小さい男ではなかった。「しょーがねぇーじゃん」。きっと、鼻で笑うだろう。その軽やかさに、男の憎めなさがあった。愛される理由があった。

 行きつけの店を訊ねるため、市内から40分以上も歩き続けたとき、なぜかひざが痛んだ。松田は晩年、ひざを庇いながらプレーしていた。

「おい、まだ忘れんじゃねぇよ!」と、カラカラと笑う声が聞こえた気がした。

小宮良之●文 text by Komiya Yoshiyuki 
photo by AFLO