ボクシング元世界王者の村田諒太さん


 多くのファンに惜しまれながら、3月に引退を発表したボクシング元世界チャンピオンの村田諒太さん(37)。「戦う哲学者」と呼ばれたボクサーは、いろいろな人と対談を好んだことでも知られています。各界の第一人者を前に、村田さんが何を語り、何を問いかけたのか。前回同様、取材を通して感じた村田さんの考えを紹介したいと思います。

羽生さんと語った「切り替える能力」

 村田さんは人との会話から何かを吸収するのが得意な人で、ボクシング界というよりは、他の分野の第一線で活躍している人と話をするのが好きでした。東京新聞の企画で多くの著名人と対談を重ねました。

 中でも思い出深いのが、2017年9月に行った将棋の羽生善治さんとの対談です。約1時間にわたって、互いに質問しあう展開は圧巻でしたが、特に驚いたのは、2人が戦術や練習法よりも、気持ちの切り替えの大切さに言及したことでした。

将棋の羽生善治さんと対談する村田さん(左)=2017年9月、千代田区の中日新聞東京本社で


村田さん 羽生さんにとって、勝負をする上で大切なことは何ですか?

羽生さん プロ棋士はたくさん対局をするので、切り替えが大事なんですね。負けてもすぐ忘れる(笑)。気にしないんです。将棋はセオリーを覚える意味で記憶力が大事なんですけど、メンタル面で言えば、記憶力は良い要素ではないんですね。いかに、切り替えて次に向かっていけるか。それに尽きるんです。

村田さん でも、切り替えるってすごく難しい能力じゃないですか。

羽生さん かなり意図的にやらないとできないです。放っておくと、人って反省と検証を始めてしまうので(笑)。将棋は対局後、ここが良かった、悪かったと言い合う感想戦という検証を1時間くらいやるんですが、そこでやった後、もう1回、自分で次の日に振り返って、それでもう完結にしています。

村田さん 早めに解決した方がいいということですか?

羽生さん 自分なりに、無理やりでも結論づけて、次に進むのが大事だと思っています。

 記憶力は良い要素ばかりではない、忘れて切り替える能力が大事という羽生さんの考察に、村田さんが何度もうなずいていたのが印象的でした。

疑惑の判定と「ピリオダイゼーション」

 実は村田さんはこの約4カ月前に、アッサン・エンダム選手(フランス)とWBA世界ミドル級タイトルマッチを戦い、不可解な判定負けを喫していました。

エンダム戦後、不可解な判定負けにうつむく村田さん=2017年5月


 ダウンを奪い、試合を優勢に進めたにもかかわらず、まさかの判定負け。「疑惑の判定だ」と、大騒ぎになりました。普通なら、相手を責めてもいいような状況ですが、村田さんは信じられない行動に出ました。試合後、すぐにエンダムの宿舎を訪れ、「お互い、全力で戦ったんだ。結果は自分たちが気にすることじゃない」と伝えたのです。

 ロンドン五輪金メダリストが見せたスポーツマンシップは、美談として取り上げられました。しかし、村田さんの行動には、もう一つ別の意味も込められていたのです。

2度目の対戦を前に、エンダム(右)とともに会見で笑顔を見せる村田さん


 スポーツ界には「ピリオダイゼーション」という言葉があります。訳すと「期分(きわ)け」。長くつらい練習がマンネリ化しないように、メニューに変化をつけ、適切にトレーニングを区切ることを指します。村田さんによると、このように「区切ること」で切り替えて次に進むのは、スポーツ選手にとって必要なことなのだそうで、この時もその考えを取り入れたのです。

 「大事なのは、自分なりに結論づけて、次に進めるかどうか」。そう話した村田さんは、羽生さんとの対談から1カ月半後の10月、エンダムと再戦し、見事、タイトルを奪いました。リングの上で見せた泣き顔が万感の思いを物語っていました。

エンダムとの再戦に勝ち、リングの上で涙を流す村田さん


 人は、いつまでも過去の失敗や負けを引きずってしまう生き物です。「切り替える」とは「終わらせること」。終わらせるという一見後ろ向きな行為が、実はとても前向きな考え方だということを村田さんは教えてくれました。

「挑戦」に踏み出せない子どもたちへ

 前回も紹介しましたが、プロスキーヤーの三浦雄一郎さんと対談した時も興味深い話が聞けました。

プロスキーヤーの三浦雄一郎さん(右)と対談する村田さん


村田さん よく夢に向かって挑戦するって言いますけど、それって実は、一歩一歩、今やれることを積み重ねていくだけのことなんですよね。挑戦という言葉をそんなに大きな意味で考えなくてもいいと思うんです。

三浦さん そうですね。僕もエベレストやアコンカグアに挑戦する前に、丹沢とか小さな山から登っていくんです。目標はずっと遠いところにありながら、その過程をゆっくり一つずつ、進んで行く感覚ですね。村田さんはどうですか?

村田さん 同じです。挑戦って言うとすごく大きなことをしていると思われがちなんですけど、そうじゃないんですよね。挑戦の捉え方を変えた方がいいのかなと思います。

三浦さん 挑戦の捉え方?

村田さん 挑戦に対するイメージがあまりに膨らみすぎて、一歩を踏み出せない子どもが多いんです。実はそうじゃないんだよ、一歩一歩進んでいって、金メダルを取ったり、世界チャンピオンになったんだよ、一つ一つやっていくことが大事なんだよってことを、子どもたちに伝えたいんですよね。

ジムで地道なトレーニングを繰り返す村田さん


 今の社会、「夢を持つことの大切さ」とか「挑戦することの素晴らしさ」が取り上げられがちですが、それにひるんでしまう子どもたちも多いのだとか。だから、村田さんは挑戦を美化せず、自然体で捉えることを強調したのです。

高校進学する子どもの進路を相談したら

 他にも日本を代表する建築家の隈研吾さんや、麻雀界で「20年間無敗」と言われ、著作家としても有名な桜井章一さんらと対談を重ねた村田さん。今回は、一部しか紹介できませんでしたが、シンプルでためになる村田さんの考え方がわかってもらえたと思います。最後に、村田さんが教えてくれた、とっておきの子育てのアドバイスを紹介します。

隈研吾さんと対談する村田さん(右)


 私事で恐縮ですが、3年ほど前、長男の高校進学の進路について、親子でもめたことがありました。親としては将来を見据え、学業に重きを置く進学校に行ってほしいと願ったのですが、子どもはスポーツの強い高校に行きたいと主張します。よくある話ですが、我が家では一大事。「どうしたものか」と取材に向かう車中で相談すると、村田さんは長男に向けて、LINEでこんなアドバイスを送ってくれました。

 「僕は中学3年生の時、将来どうなりたいのかを考えました。今まで生きてきた中で何が一番自分を熱くしたか、夢中になれたか、それを考えた時に出てきた答えはボクシングでした」

 「2度も逃げ出してしまったボクシングにもう一度チャレンジする。それが僕の答えでした。だから34歳になっても続けることができているのだと思います」

 世界王者にまで上り詰めた村田さんですが、練習のつらさや人間関係の煩わしさから、ボクシングをやめてしまったことが2度あるそうです。人生について真剣に考えたのが、ちょうど長男と同じ中学3年生の時だったので、その時に自分が感じたことを教えてくれたのです。

人の期待で生きていく必要はない

 村田さんは続けます。

 「他人との約束にうそはつけても、自分にはうそをつけません。自分とした約束というのは永遠に残ります。自分で決めた決断なら、責任を取れます。逆に、人に決められた人生は失敗した時に言い訳を生み出します」

 「自分が何をしたいのか、どういう人生を歩みたいのか、人の期待で生きていく必要はありません。親であろうと自分の人生に責任は持てません。自分の人生を自分自身で責任を持って決断すること。そうすれば後悔は生まれないと思います。人生の分岐点、行き先は自分で決めよう!」

「自分とした約束は永遠に残る」と話す村田さん


 感謝を伝える筆者に村田さんは「人生、選択の連続です。自分で選択することは、自分に責任を持てることだと思うんです」と説明してくれました。

心が楽になる「親の役目とは?」

 村田さん自身も2児の父親で、子育てについて、たわいもない話をしました。雑談ですが、今でもふっと思い出す村田さんの言葉があるのです。

 「何だかんだ言って、親の言うことなんて、子どもは聞かないものですよ。なのに、親がこれをしろ、あれをしろって、無理やりやらされたら、嫌な思い出しか残らないじゃないですか。僕は単純に、親の役目って、子どもに楽しい思い出を残してあげることじゃないかなって思うんですよね」

 子育てというのは大変です。「どうしたらいいのだろう」と悩むことの連続です。考えすぎてよくわからなくなることもあるでしょう。そんな時、「楽しい思い出をつくってあげられれば、それでいい」という村田さんの考え方は、心がすっと楽になるはずです。

4月の引退会見で笑顔を見せる村田さん


 引退会見で「ボクサーとしては引退ですが、引退という名のスタートだと思っています」と語った村田さん。今後の活動は未定だそうですが、新たな道を進むと自分で決めた元世界王者に心から拍手を送りたいと思います。村田さん、長い間、お疲れさまでした。そして、たくさんのアドバイス、ありがとうございました。

村田諒太(むらた・りょうた)

 1986年、奈良県生まれ。中学時代にボクシングを始める。東洋大学を卒業後、2012年ロンドン五輪で金メダルを獲得。2013年にプロ入りし、2017年10月にアッサン・エンダムに勝利し、WBA世界ミドル級チャンピオンになる。2022年4月にゲンナジー・ゴロフキンと戦った王座統一戦は、敗れたものの、ファイトマネーなど総額数十億円が動く、日本ボクシング界最大のビッグマッチとなった。プロ通算成績は19戦16勝(うちKO勝ち13回)3敗。2023年3月に現役引退を表明した。

 「アディショナルタイム」とは、サッカーの前後半で設けられる追加タイムのこと。スポーツ取材歴30年の筆者が「親子の会話のヒント」になるようなスポーツの話題、お薦めの書籍などをつづります。