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岩井克人|KATSUHITO IWAI
1947年、東京都生まれ。経済学者。東京大学卒業後渡米し、マサチューセッツ工科大にてPh.D(経済学)を取得。プリンストン大学客員准教授、東京大学教授などを経て、現在は国際基督教大学客員教授。代表的な著書に『貨幣論』〈筑摩書房〉、『会社はこれからどうなるのか』〈平凡社〉、『経済学の宇宙』〈日本経済新聞出版社〉などがある。10月11日発売の『WIRED』プリントVol.25にて、ビットコイン論、貨幣の本質を考えるための5冊を紹介している。

──1993年に『貨幣論』を書かれてから、お金をめぐる状況もかなり変わってきました。まずはいま、「現代の貨幣」について岩井先生がどのように考えられているのかを教えてください。

『貨幣論』を書いて、わたし自身は貨幣についての考えはある意味では一段落したと思っていたんですね。ただ、そのあと、95年くらいにeキャッシュなどの電子マネーが出てきたのを見て興奮しました。わたしが『貨幣論』で書いたように、貨幣というのはモノ自身に価値があるのではなく、貨幣として使われているから価値があるのだということが、どんどん純粋化してきたからです。

当時、そうした電子マネーが出てきたときに、「貨幣がなくなる」ということをいろんな人が言ったわけですが、とんでもない。貨幣がなくなるのではなくて、貨幣は実体性を失った情報になることでより純粋化しただけなのです。金塊やコイン、それがのちに紙幣になって、貨幣がだんだんモノとしての重みを失っていくプロセスの究極形態であるキャッシュレスは、マネーレスではないのです。

電子マネーの登場は、わたしの考えていた貨幣論の正さを証明してくれました。わたし自身は、あくまで理論として『貨幣論』を書きましたが、現実がだんだんとその理論に追いついてきたのです。

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──『貨幣論』で書かれたほかに、この23年で見えてきた新しい貨幣の本質というのはあるのでしょうか?

2008年にある国際会議でリチャード・シーフォードという英エクセター大学の教授のセミナーを聴いて、目から鱗が落ちたことがあります。

シーフォードさんはギリシャ悲劇を専門にしている古典学者なのですが、「古代ギリシャ人は現代人だ」と言い切ります。現代人がギリシャの文学や哲学を読んでも身近に感じると。古代文明のなかで、メソポタミア文明やエジプト文明は現代人にとっては異質だが、ギリシャ文明だけは直接現代に通じる。そして、それはギリシャが世界で最初に貨幣化された社会であったからだというのです。

従来の古代ギリシャ経済の研究では、古代ギリシャというのは貨幣経済とはまったく異質な社会だと思われていましたが、この20年間の考古学や古典学の研究から、貨幣がよく使われた社会だということがわかり始めてきました。

貨幣とは、古代ギリシャであればドラクマですが、世の中のすべての商品が買える一般的な交換の媒介です。つまり、多様性に満ちた無数の商品をひとつの価値で表現している。この貨幣と商品との関係は、表面的には世界は雑多な現象に満ちているけれど、その背後には統一的で普遍的な法則があることを主張したギリシャ哲学と同じ構造をしているというのです。

古代ギリシャにおいて、世界で初めて人々が日常的にお金を使うようになりました。ひとつの抽象的な価値で多様なモノを表現している貨幣を毎日使うことによって、まさに「雑多な世界の背後に統一的な法則があること」を日常的に理解できるようになったと。それによって、近代の科学や哲学にそのまま通じる考え方が古代ギリシャで生まれたと、シーフォードさんは言うわけです。

わたしは『貨幣論』を書くことによって、実は、シーフォードさんと同じような考えに達していました。しかし、経済学者のわたしがそう言っても我田引水となってしまい、誰も信じてはくれません。でも、ギリシャ古典学の権威であるシーフォードさんがそう言ってくれることによって、こうした考えの説得力ははるかに増しました。シーフォードさんのセミナーを聞きながら、長らく学問をしていると、60歳を過ぎてからもこうした驚きと嬉しさがあるものなんだと思ったものです。

いずれにせよ、わたしの貨幣論の考えは20年間変わっていません。しかし、グローバル化とインターネット化によって、現実が『貨幣論』で書いた抽象的な世界により近づいてきたというのは、わたし自身にも奇妙な感覚を覚えます。現実が、抽象的に考えた理論にどんどん近づいてきたのです。

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岩井が1993年に上梓した『貨幣論』。お金はモノ自体に価値があるという「貨幣商品説」、権力がその価値を認めているから価値があるという「貨幣法制説」。従来まで広く浸透していたこれら2つの説を否定し、「貨幣とは何か?」という命題を探求する経済学の名著。サントリー学芸賞を受賞。

──お金のあとに、会社(『会社はこれからどうなるのか』)や社会(『二十一世紀の資本主義論』)に先生の興味は移っていったと理解しています。そのなかで信頼・信任を基盤とした「市民社会」の必要性を言われていますが、先生が以前から説かれていたそうした社会のあり方が、現代においてようやく実現してきたという印象を受けます。

そう思います。とはいえ、わたしはずっと理論的な研究を行ってきており、そのなかには道徳や倫理、信頼という概念はなるべく入れたくなかったんですね。

つまり従来の資本主義論や会社論を批判するときに、最初から倫理的な立場を決めてやってしまうと、その批判はイデオロギーに基づくんじゃないかと誤解されてしまう。だからわたしは、資本主義においては効率性と安定性は二律背反の関係にあるとか、会社の主権者は株主だという考えは論理的に矛盾している、というように論理的に攻めていくということをずっとやってきたんです。

ところが会社論を論理的にやっていくと、そのなかから「信任論」というものが生まれてきてしまった。会社とは法人化された企業の別名ですが、法律上のヒトでしかない会社を実際のヒトとして動かしていく経営者とは、法人としての会社に対して倫理的な義務を負わなくてはならない存在だ、という結論が思いがけず出てきてしまった。理論的に考えたら行き当たったのが信任論だったのです。

──その「信任論」とはどういうものか、もう少し具体的に教えていただいてもいいでしょうか?

伝統的な経済学は、この社会の人間関係をすべて契約関係として理解しようとしています。民法の基本原則に「契約自由の原則」というのがあります。契約が嫌ならば、結ばなければいいという原則です。ということは、人々が契約を結ぶのは、お互いに自分の利益になるからです。つまり、契約関係とは、自己利益追求の手段なのですね。

でも、わたしが主張しているのは、結局、われわれの生きている社会には、自己利益を求める契約関係には決して還元できない、信頼によって任す/任されるという関係が無数にあるということです。

最初は経営者と法人としての会社との関係を考えていたのですが、それはもっと広げられることに気づきました。例えば、専門家と非専門家の関係。医者と患者の関係だったら、医者は患者の身体のことを患者以上に知っている。弁護士と依頼人、教師と生徒、技術者と一般人の関係などもそうで、それらはすべて、信頼によって任す/任されなければならない関係にほかなりません。

では、そういう関係はどのようにしたら維持できるのか? 契約ではダメです。法人としての会社が結ぶ契約は、実際はすべて経営者が会社の名の下に結びます。だから、経営者と会社とが結ぶ契約は、必然的に経営者の自己契約になってしまう。医者と患者との契約も、実質的には、患者以上に患者の病気のことを知っている医者の自己契約になってしまう。

自己契約とは、元旦の禁酒の誓いと同じで、法的に強制することはできませんから、経営者や医者が自己利益を追求することを許されると、契約の名の下に、会社や患者を一方的に搾取できてします。例えば、自分の報酬を超高額にしたり、患者を人体実験に使ったりできてしまう。それを防ぐためには、経営者や医者に、自己利益は抑えて、法人としての会社や無力な患者の利益にのみ忠実に仕事をするという「倫理的な義務」を負わせなければならないのです。

そのような倫理的義務によって、初めて会社は経営者に経営を任せられるし、患者は自分の身体を医者に任せられる。信頼をコアとした関係が成立するわけです。そういう信頼、あるいは倫理において結ばれる関係が、市民社会には必然的に求められること示そうというのが「信任論」になります。

重要なことは、現在のような高度情報化社会では、人間は誰でもある分野では専門家として振る舞わざるをえないということです。その部分では、自分の利益を抑えて倫理的に振る舞わざるをえない。そして、実際に、多くの人がそう振る舞っているからこそ、われわれの生きている社会は成り立っているわけです。

世界にはいろいろな問題があります。問題だらけですが、そうした信頼関係がなかったら、きっと世界はもっとひどいものだったはずです。資本主義社会とは、個々人の自己利益追求にすべてを任せている社会だと考えられてきましたが、その資本主義社会、常に崩壊する可能性のある資本主義社会が曲がりなりにもある程度生きながらえてきたのは、いろんなところで倫理性をもった人間がいるからだということに気づいたのです。

最近は、会社の経営者たち、さらには専門家たち、ということはすべての人間に対して、あなたたちは倫理的義務を負っているんだということを伝えるのを自分の使命と感じ始めています。

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国際基督教大学の岩井の研究室には、経済はもちろん、政治、言語、哲学、建築といったさまざまな種類の本が並ぶ。

──現在はどのような研究に取り組まれているのでしょうか?

いまは、この「信任」という概念について論文を書いています。

世の中の多くの部分は、利潤追求をする資本主義と、法のもとにつくられた国家システムで占められています。しかしそれらに組み込まれない領域がある──それが「市民社会」だと思うのです。

例えば震災があったときには、利益のためでも国家の強制でもないのに、知識や物資を提供する人々や組織がたくさん現れました。そういうかたちで、自己利益追究の経済でもなければ、行政のなかに組み込まれた世界でもないところで、いろんな社会実験が行われ、場合によっては利潤を生んで資本主義システムに組み込まれる、あるいは行政に取り込まれて法律化されたりします。

そういう面で、資本主義社会や国家に対して、常に新しいアイデアを供給する場として市民社会をとらえるべきだと考えています。その市民社会のなかで人々はどう動いているかといえば、誰に言われたわけでなくとも、自分を社会に対して何らかのオブリゲーション(義務)もった「市民」としてとらえている。つまり自らを社会に対して信任関係を結ぶような存在と考えて行動をしているのです。

市民社会とは、社会がそれに向かって行く理想郷ではありません。いつかは資本主義や国家に吸収されるかもしれないけれど、新しい問題を解決するための「アドホック(臨時的)な実験場」として捉えてみるといいのではと考えています。その市民社会のフレームワークを考えるときに、信任論というのが役に立つと思っているんですね。そういうことを、いつか書き上げたいと思っています。

──そうした会社や社会についてのお考えも、20年以上前に貨幣を考えたからこそ生まれたものだと思います。最後に、先生にとっての貨幣について考えることの意義を教えてください。

先ほど言いました、雑多な世の中に普遍的な法則を見出すものとして、貨幣のほかに言語と法律があると考えています。言語、法、貨幣。それらはいずれも、物理的な性質にも遺伝的な情報にも還元されず、単に手段として使われることで、初めて意味や力や価値をもち、人類全体が世代から世代へと継承していくものです。この言語・法・貨幣の謎を解き明かすことが、人間の謎を解き明かすことになるはずです。哲学とは、言語とは何かを、倫理や法とは何か考えることでもあります。

でも、もしわたしが哲学や倫理学をやっていたら、一生をかけてウィトゲンシュタインやアリストテレスの解説者で終わっていたかもしれません。なぜならば、言語と世界の関係、法と社会との関係は大変に複雑で、主として西欧において思考されてきたからです。だから、西欧言語を母語としない人間にとって、哲学や倫理学をすることには、本質的なハンディキャップがあります。

しかし、貨幣と商品との関係についていえば、基本的には「1とN」の関係です。貨幣が1で、多様な商品がNです。言語と世界、法と社会との関係に比べて、はるかに簡単。いや、考えられる限り最も単純な構造をしています。日本で生まれたわたしのような人間でも、言語的な制約を超えて、一生懸命抽象的に考えると、なんとかその本質を理解することができるのです。

そうしてなんとか貨幣の問題を自分の力で考えることができたからこそ、あとから言語や法、さらには会社論や信任論へと問いを広げることができました。そういう意味で、わたしがたまたま最初に貨幣に取り組んだのは、非常に幸運なことだったと思っています。