蒙古の侵攻を受けた高麗(コリョ)王朝。政権内には、徹底抗戦を唱える一派がいれば、弱腰の和平を主張する一派もいた。1270年、ひそかに蒙古と手を組んだ文官たちによって武人政権は滅ぼされた。翌年、蒙古は国号を「元」と改めて完全に中国大陸の支配者となった。そして、高麗に対する締めつけを強化していった。

■三別抄の抵抗

 高麗王朝の政権は元に屈伏したが、私兵軍団の三別抄(サムビョルチョ)は元に対して徹底抗戦を続け、全羅道(チョルラド)や済州島(チェジュド)に南下しながらゲリラ戦を行なった。彼らは国家としての高麗を最後まで守ろうとしたのである。

 しかし、1273年、元の大軍が三別抄の本拠地だった済州島に押し寄せ、決死の抵抗もかなわず三別抄も滅んだ。

 これによって、高麗で元に反抗する勢力はなくなった。

 こうなると、元は次に日本を狙った。

 1274年、高麗を先兵とした元寇が始まったが、台風で壊滅的な被害を受けたこともあり、元寇は失敗に終わった。その後、元は次第に国力が衰え、朝鮮半島から退却した。

 かわって、高麗を苦しめたのが海賊集団の倭寇だった。各地の海岸に出没して大きな被害をもたらした。

■強大となった仏教寺院

 倭寇を鎮圧する過程で実績をあげてきたのが、高麗の武将だった李成桂(イ・ソンゲ)である。

 1368年、中国大陸では元にかわって明が統一国家を築いたが、高麗では、北方に退却した元を支持する一派と、明を支持する一派が対立した。その間隙をついて李成桂は開京を陥落させ、政治的に第一人者となった。

 最後は、高麗王朝34代の恭譲(コンヤン)王が李成桂によって追放され、1392年に高麗は滅んでしまった。

 そんな高麗なのだが、当時の生活や文化を見てみよう。

 高麗を建国した王建が仏教を手厚く保護したこともあり、仏教が隆盛をきわめた。各地に巨大な寺院が建てられ、仏教文化も華やかだった。

 その大きな遺産が、海印寺(ヘインサ)に残る八万大蔵経(13世紀に作られた大蔵経の板木)である。

 現在は世界遺産となっているが、「よくぞこれほどのものを作った」と感心させられるほどの木版である。

 一方、仏教寺院が広大な敷地を所有して僧兵まで養い、政治に深く関与して国政を混乱させたのも事実で、その教訓を生かして高麗の次の朝鮮王朝は仏教を排して儒教を国教に定めたのである。

 実際、高麗では仏教と同様に儒教も生活に浸透していた。それは、科挙の制度が儒教の教義に支えられていたことも大きく関係している。儒学は文官の必修科目となっていたのである。

■肉食をしなかった

 芸術に目を転じれば、高麗文化を象徴するものが青磁である。もともとは中国の影響で始まった高麗青磁だが、12世紀半ばには独特の優美な形と色合いが完成し、以後は貴族社会の中で定着して朝鮮半島を代表する美術品になった。その芸術性は今も高く評価されている。

 食生活の面では、仏教が厚く信仰されていたので、殺生を禁じる教えに従って肉食を控えていた。

 さらに、まだ唐辛子などが伝わっておらず、キムチにしても今の水キムチのように辛くないものを食していた。そういう意味では、現在の韓国とはかなり違った料理が食卓に並んでいたと推定される。

 朝鮮半島で肉食が盛んになるのは、国教が仏教から儒教に変わった朝鮮王朝以降であり、キムチが辛くなるのは唐辛子が伝わった17世紀以降のことである。

 いずれにしても、現在の韓国は政治、生活、文化、風習の様々な面で500年以上も続いた朝鮮王朝の影響を濃密に受けており、高麗時代は遙かな歴史のかなたにある、という雰囲気がないわけではない。

 それでも、仏教を信仰する国民が多いというのは高麗時代の賜物だし、新羅の後を受けて朝鮮半島の統一を守ったという点でも歴史的に高い評価を受けている。

文=康 熙奉(カン ヒボン)
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