最後の3球はすべてストレートだった。 

 2016年10月1日、甲子園球場。

 阪神タイガース・福原忍のプロ18年間の締めくくりとなるマウンドには、広陵高の先輩でもある、金本知憲監督が待ち受けていた。

「思い切って投げろ!」

 金本監督から手渡されたボールで全力を込めたストレートは、甲子園球場の電光掲示板に143キロと表示された。全盛期には150キロ台を誇ったストレートは影を潜めていたが、真剣勝負で望んだ立岡宗一郎(巨人)を気持ちで左飛に打ち取った。

“豪球で打者をねじ伏せる!”

“常に表舞台のヒーロー!”

 福原の野球人生は、そんな華々しいものでは決してなかった。

◎転機となった2つの大きな手術

 福原の野球人生を狂わせたのは、2つの大きな手術だった。

 広陵高2年秋、県大会を制し中国大会へ進むも、右ヒジは悲鳴をあげていた。少年野球のころからのチームメートで、後に巨人の主軸となる二岡智宏も、不運にもろっ骨を痛めていた。中国大会準決勝で敗れた福原の右ヒジは、後に剥離骨折だとわかる。

 3年夏の広島大会でも広陵高は優勝候補筆頭だったが、広島工高に敗退。手術の影響で本調子ではない福原は、甲子園のマウンドに立てなかった。

 甲子園への夢を絶たれた高校時代だったが、常に「感謝」の気持ちを持ちなさいという、中井哲之監督の教えは福原を人としても野球人としても大きく成長させた。

 2回目の手術は、阪神入団4年目のオフ。右肩関節唇損傷修復の手術だった。

 入団1年目、福原はリリーフとして54試合に登板し、10勝7敗9セーブ。150キロ台のストレートで勝負した1年だった。

 周りから「豪腕」のイメージで見られていたこともあり、思い切りよく投げ込むストレートが、今度は福原の右肩をむしばんでいった。内視鏡で見ると、右肩の内部は“ぐしゃぐしゃ”だったという。

 手術を終え、奇跡的に復活したのは2003年8月31日。実に380日ぶりの1軍のマウンドだった。

◎“つなぎ役”に徹する

 今までの投げ方では、また同じことを繰り返す。手術を機に、福原は投手として進化していった。

 肩に負担をかけない投球フォームで、ストレートも「質」にこだわり、ボールの回転とキレを磨いた。

 また、ストレート一本での勝負するスタイルから、落差の大きいカーブで緩急をつけ、よりストレートの威力を感じさせる投球術も身につけていった。

 福原の18年間の通算成績は登板数595試合、83勝104敗、29セーブ、118ホールド。主に先発を担ったのが7年、リリーフを担ったのが9年、シーズン途中で配置転換したのが2年、と少しリリーフ歴のほうが長かったくらい。しかし、“味方の援護に恵まれないながらも、先発として奮闘していた”イメージはほとんどない。

「先発の勝ち星を消さないように、抑え投手への“つなぎ”役に徹した」

 福原の選手人生において晩年にあたる2014年、2015年に獲得した最優秀中継ぎ投手が、福原を称えるにふさわしい賞だったともいえる。


◎「感謝する人」から「感謝される人」へ

 話は戻って2016年10月1日、甲子園球場。

 福原は引退セレモニーの最後のマウンドで泣いた。

 広陵高の中井監督から授かった「感謝」の気持ちがこみ上げた瞬間であった。チームメートに感謝し、スタンドを埋め尽くしたファンに感謝し、自らを奮い立たせてくれたマウンドに感謝していた。


 振り返れば、これからの阪神を託す藤浪晋太郎や岩貞祐太も泣いていた。また、ともに長年戦ってきた、能見篤史や安藤優也も泣いていた。

 この時のチームメートの涙は、気がつけば、人として野球人として、「感謝される」立場に変わった証だろう。

 決して華々しい野球人生ではなかったかもしれない。

 しかし、福原がチームメートやファンにいつまでも「感謝される」投手であることに間違いはないはずだ。


文=まろ麻呂
企業コンサルタントに携わった経験を活かし、子供のころから愛してやまない野球を、鋭い視点と深い洞察力で見つめる。「野球をよりわかりやすく、より面白く観るには!」をモットーに、日々書き綴っている。